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中村哲医師の死と人道支援NGOの活動環境の悪化

東西冷戦期、冷戦終結後、9・11事件後……。世界の紛争地はどう変わったのか

熊岡路矢 元日本国際ボランティアセンター(JVC)代表 日本映画大学特任教授

中村哲さんの遺影が飾られた祭壇=2019年12月11日、福岡市中央区

 12月4日、アフガニスタン・ジャララバードで国際協力NGO「ペシャワール会」の中村哲医師およびザイヌーラさん(運転手)など5人のスタッフへの武装攻撃があり、全員が殺害されるという痛ましい事件があった。中村医師とは、同世代のNGOワーカーとして、80年代末以降、会議などで数回お会いしたことがある。彼が活動したアフガン東部に、私も2002年、パキスタン、ペシャワールから陸路で入ったことがあった。

 今回の事件の背景、現地の政治、社会的な背景などの詳細は、まだ分からない。ただ大きく見て、この40年、戦争・内戦地域で人道支援にたずさわるNGO(非政府団体)とそのスタッフの活動環境が厳しくなってきているのは間違いない。さらに言えば、紛争地の最前線で取材・撮影を行うジャーナリストの危険度はさらに上がっている。

 なぜ、NGOやジャーナリストをめぐる環境は悪化しているのか。国際情勢の変容を振り返りつつ、あらためて考えてみた。

NGOやジャーナリストの活動をある程度保障した東西陣営

 かつて東西冷戦時代(第2次世界大戦後~1991年頃)、アメリカをはじめとする「西側陣営」とソ連などの「東側陣営」は、直接対決は避けながらも、代理・局地戦争という形で、世界各地で戦った。ただ、その頃は両陣営とも「良い評価を獲得する」ために、不完全ではあったが、紛争地で動くメディアやNGOに対して、ある程度の活動の保障をおこなった。

 たとえばベトナム戦争では、南ベトナム・アメリカ側、北ベトナム・ソ連側のそれぞれが、各々の支配地域で活動する報道、人道支援団体をある程度は守ろうという姿勢を見せた。少しでも自陣営に有利な報道をしてもらおうという思惑、国際社会の「良い評判」を得ようという狙いからだった(もちろん、報道にせよNGOにせよ、それでこれら大国に対する自分たちの意見や批判的見解を大きく変えるわけではないが……)。

 UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)、ユニセフ、WFP(世界食糧計画)、赤十字国際委員会・国際赤十字連盟(各国赤十字)など、国連、国際機関の人道支援活動についても、アメリカ側、ソ連側の双方が守る努力をした。アメリカもソ連も国連の中心国(常任理事国)であり、国際人道法を守り人道面に配慮しているかたちを見せる必要もあっただろう。ちなみに、国際人道法は戦争自体を否定している訳ではない。戦争の主体が最低限守るべき人道ルール(負傷兵、捕虜の保護。戦場の市民の保護など)を示している。

 だが、迫真の写真や動画を撮る必要のあるジャーナリストは危険地にあえて踏み込み、地雷を踏んだり、狙撃を受けたりして、数多くの犠牲者を出した。ベトナム戦争では、有名なロバート・キャパをはじめ、ベトナム人、外国人の写真家が173人亡くなった(石川文洋『戦争と報道写真』)。「外国人嫌い」のクメール・ルージュの支配地域をふくめ戦線が混乱していたカンボジアおよびその国境付近では、沢田教一や一ノ瀬泰造など、ベトナム以上に多くの国際報道人が狙撃や拉致の結果、殺傷されている。

 戦争の最前線で取材することが必須であるジャーナリストに比べると、NGOなどの人道支援機関には、危険を回避して撤退する判断をする余地がある分、犠牲者は少ないと言える。NGOは「決死隊」として活動しているわけではない。

紛争の対立構造が変化

中村哲医師を追悼して並べられた写真パネルや著書=2019年12月12日、福岡市博多区
 東西冷戦の終結を受け、1990年代初めにソ連邦およびソ連・東欧圏が崩壊。世界は「平和の配当」を受けると考えられた。ところが、現実はそうならなかった。

 いわばアメリカの一人勝ちの世界で「援助競争や宣伝」の配慮や必要性が減少するなか、経済・金融のグローバル化の影響を受けて世界的に貧富の差が広がり、世界各地で紛争の芽がそれぞれに膨らみ始めた。他方、いわば「ニーズと顧客」を失ったアメリカなどの巨大軍需産業や軍産複合体は、新しい「ターゲットと消費者」を求めるようになっていった。

 そのような状況のなか、90年代には、それ以前の対立構造とは異なる紛争が起きてきた。ロシア内におけるチェチェン紛争や旧ユーゴにおける民族紛争がそれである。一見、民族、宗教の争いと見えつつ、その背後には常に資源、稀少金属、土地、水にからむ利権紛争があった。

 アフガニスタンでは、旧ソ連軍が撤退した後、それまで「対ソ連」で共闘・協力していたアメリカと一部のイスラム戦闘勢力(アル・カーイダなど)の間の対立が深まっていった。湾岸戦争後、米軍がイスラム聖地をもつサウジアラビアで展開したことへのアル・カーイダ側の反感が、両者の亀裂の始まりであると言われた。

 この頃から、NGOもジャーナリストも、現地の一部の政治勢力・武装勢力から敵視されるようになり、危険が徐々に増した。チェチェンでは1996年、ICRC(赤十字国際委員会)医療チームが襲撃され、看護師などが殺害された。反政府勢力のしわざという見方がある一方、反政府側を悪者にするために政府側が仕組んだという情報もあった。西側であれ東側であれ、それまではNGOにとって安全確保の交渉相手がある程度具体的に見えていたが、それが次第に見えにくくなっていった。

9・11事件後に顕在化した「二分法」

 パレスチナ・イスラエル紛争や朝鮮半島の分断への解決ふくめ、「平和な21世紀」が見えたかに思えた21世紀初め、2001年9月に航空機を利用した「9・11」殺傷事件が起こる。そして、これを“活用するかたち”で、米ブッシュ政権は戦争にのめり込んだ。

 アメリカは、アフガニスタンおよびイラクでの戦線を拡大する過程で、「アメリカの味方か、それとも敵=反米勢力の味方か。(中間・中立の立場は認めない)」という単純な二極選択を、世界に迫った。対する反米勢力も同様の二者択一を迫った。

 そして、この「二分法」はNGOをも直撃した。

人道支援と対立する「二分法」の論理

 本来、中立でないと成り立たない紛争地での人道支援とこの「二分法」の論理は、真っ向から対立する。反米勢力の味方と見なされれば米英軍に敵視されるし、親米と見なされれば反米勢力の批判・攻撃の的になるからだ。

 欧米系NGOは当然中立を旨として活動していたが、イラク戦争の枠の中では「有志連合派」と見なされ、活動の休止、あるいは撤退を迫られた。国連安保理などで米英の戦争提起に反対したフランスやドイツのNGOも、現場では米英NGO同様排斥された。

 当初は私たち日本のNGOに好意的であったイラク社会も、自衛隊のイラク派遣を契機に、厳しい目を向けるようになった。やむを得ずイラクの隣国であるヨルダンに活動の軸足を移し、活動は現地スタッフを中心におこなうようにした時期もあった。

 ちなみに、この時期、メディアの世界も「二分法」の影響で、米軍と共に(embedded=「同床で」)米政府・軍側の立場で「取材」する側と、独自に取材を行う側とに分かれた。故意か事故か、有志軍の攻撃を受けたメディアもあった。

 中立を許さない「二分法」によって、政治的に偏らずに人道支援を続けようとした国際NGO・現地NGOは、米国勢力、反米勢力の双方から敵視されることが多くなった。アフガン戦争、イラク戦争以降、人道支援NGOの安全環境は大きく損なわれ、死傷者、拉致被害者が増えた。大きな国連機関、国際NGOや著名な個人の場合(2003年8月のセルジオ・デメロ国連イラク代表や今回の中村医師のような場合)には、大きなニュースにもなるが、地元のNGOスタッフや活動に関わる市民の犠牲については広く知られることもなかった。

アフガン・中東を不安定にしたアメリカの戦争

 そもそも、9・11事件の首謀者・実行部隊をアル・カーイダとするなら、アフガニスタン全体への攻撃は必要なかった。圧倒的な軍事力、特に空軍力をもつアメリカであれば、軍事小国アフガニスタンと政治・外交交渉を行うことで、目的(たとえば、アル・カーイダとの協力を止める)を達成できた可能性は高い。

 また、9・11事件と関係なく、アメリカを攻撃する意図のないイラクを相手にした、必然性のまったくないアメリカの対イラク戦争はさらに罪が重い。イラクを破綻社会に追い込んだ。イラク社会を崩壊させただけでなく、結果的に隣国シリアの不安定化と内戦・戦争の激化を招き、「イスラム国」台頭を許した。

 今回、中村医師らが亡くなった南西アジア(アフガニスタン)や西アジア(=中東。イラク、シリアなど)の不安定化は、アメリカの二つの戦争が引き起こしたものに他ならない。

vladm/shutterstock.com

小泉政権の自衛隊派遣が転機に

 日本の人道支援NGOにとって大きな転機となったのは、アフガン戦争でアメリカ・米軍を助けるため、小泉純一郎政権のもとで2001年11月に施行された「テロ特別措置法」施行とそれに基づく、自衛艦船の調査・研究名目での派遣と、インド洋、米軍艦船への洋上補給開始だった。

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