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千円札に気づかされたアジア人の葛藤

田中宏さんと考える(1)東京五輪に沸く1963~64年は戦後日本の大転換点だった

市川速水 朝日新聞編集委員

アジアの留学生から教わった「千円札の意味」

 田中さんの財布には、きちんと折った古い千円札が入っている。

 その肖像は初代総理大臣の伊藤博文。今の肖像は細菌学者・野口英世だが、その前の作家・夏目漱石の、さらにその前だ。

 1963年11月、聖徳太子に代わって発行され、20余年流通した。その伊藤博文が田中さんの原点。

 東京外語大学中国学科を卒業し、一橋大学大学院へ進んだ田中さんは1962年、アジア文化会館に就職する。「アジア学生文化協会」を創立した社会運動家・穂積五一(ほづみ・ごいち)が留学生を迎えるために開いた。その思想や留学生とのふれあいが、その後深い影響を与える。

 穂積は、第2次大戦直前に「皇道翼賛青年連盟」を結成した中心人物で、天皇制の国体の下、「臣民翼賛組織」を実践するという、今でいう右翼的考えの持ち主だったが、その「実践」はアジア人と平等な関係を築くことだった。

拡大穂積五一さん。1981年、79歳で死去するまでアジアの若者と接し続け、父親のように慕われた=1963年、東京・文京区のアジア文化会館

 傀儡(かいらい)国家・満州への移民に反対し、朝鮮の解放・独立を主張した。朝鮮独立運動の青年をかくまい、開戦に踏み切った東条英機首相を批判。戦後は連合国軍総司令部(GHQ)によって、穂積が舎監を務める「至軒寮」が名称を変更させられたこともある。

田中「台湾、香港、東南アジアからの留学生でした。韓国とはまだ国交正常化していませんでした。そのころは羽田と都心を結ぶモノレールもなく便が悪いなか、私もよく空港へ迎えに行きました。そのころの留学生は、大戦の記憶が残る親の世代から『日本なんかに行くな、ひどい目に遭うぞ』と反対された人も多かったが、『日本はもう、かつてとは違う国に生まれ変わったのだから』と押しきって来た若者もいましたね」

 1963年から64年にかけて。それは、戦後日本にとって大きな転換期であり、飛躍の時期だった。

 1964年東京オリンピックは、「平和国家・日本」の国際舞台デビューだった。東海道新幹線が開業し、テレビ、洗濯機、冷蔵庫の「三種の神器」が爆発的に売れ、高度経済成長がピークに向かっていった。

 ただ、そのなかで田中さんはアジア人の目を通じて気づいた「戦後日本」に衝撃を受ける。きっかけが1963年初冬の新千円札発行だった。

拡大1963年11月1日、全国にお目見えした伊藤博文の新千円札=東京都千代田区の旧住友銀行支店

田中「東南アジアの華人留学生が『伊藤博文は朝鮮民族の恨みを買って暗殺された人でしょう。戦前ならいざ知らず、戦後の新生日本でなぜその人を持ち出すの? 在日朝鮮人も、このお札を使うわけでしょう。日本人は、ずいぶん残酷なことをするんですね。政府を批判する文化人、あまたの知識人たちも、お札のことは誰も批判しない。薄気味が悪い』といわれて驚きましたよ」

 日韓併合前年の1909年、伊藤はハルピン駅で、朝鮮人・安重根(アン・ジュングン)の銃に倒れる。今でも安重根は韓国の英雄であり、伊藤は朝鮮植民地支配の元凶とみられている。

田中「もちろん日本の紙幣だから、良いとか悪いとかは関係ないのだけれど、その華人留学生の指摘にまったく気がつかなかった自分は何だろうと自問した。おかしいじゃないかという日本人が、なぜ誰もいなかったのだろうか。その理由が分からない…」

 振り返ると、このころ、好況の陰で様々な動きがもつれあっていた。戦前回帰というべきか、戦争の悪夢を振り払う「未来志向」というべきか。

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筆者

市川速水

市川速水(いちかわ・はやみ) 朝日新聞編集委員

1960年生まれ。一橋大学法学部卒。東京社会部、香港返還(1997年)時の香港特派員。ソウル支局長時代は北朝鮮の核疑惑をめぐる6者協議を取材。中国総局長(北京)時代には習近平国家主席(当時副主席)と会見。2016年9月から現職。著書に「皇室報道」、対談集「朝日vs.産経 ソウル発」(いずれも朝日新聞社)など。

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