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千円札に気づかされたアジア人の葛藤

田中宏さんと考える(1)東京五輪に沸く1963~64年は戦後日本の大転換点だった

市川速水 朝日新聞編集委員

「行動する学者」の道へ

 いま、日本と韓国の間では、大戦中の元徴用工への賠償をめぐる最高裁判決をきっかけに冷たいやりとりが続いている。

 日本による輸出厳格化、報復措置として韓国が軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄を宣告、ぎりぎりの破棄凍結、協定続行。

 特徴的なのは、この間、日本の首相や政権中枢から「ありえない判断」「賢明な判断を求める」「無礼だ」と、上から目線で敵対視する言動が繰り出されることだ。

 日本が韓国の三権分立を否定したり、攻撃的で嘲(あざけ)るような言葉を投げたりしたことは、過去にもなかったのではないか。

 こんな雰囲気を生んだのは何なのか。日本が突然こうなったのだろうか。そうではないだろう。

 書店に山積みされる嫌韓本、在日韓国・朝鮮人を貶めるヘイトスピーチは、裁判になり、条例で規制されるほどエスカレートしてしまった。ネットには「あいつは在日」などと真偽不明のレッテルを貼る投稿があふれている。さらに、今は高校無償化や保育・幼稚園無償化から朝鮮学校を外し、日本人拉致問題と結びつけている。

 もっとさかのぼれば、日本はさまざま法律の国籍条項で、かつて植民地支配した朝鮮・台湾出身の「在日」の人びとを戦後、ほぼ全面的に排除してきた。

 排除や差別が当たり前のように通り過ぎていく日本は、どこかおかしいのではないか――。そう考えた田中宏さん(82)は、「行動する学者」の道を歩んだ。

80代になっても資料を読み込み論文執筆が田中宏さんの日課だ。週末は市民集会に出向く=2019年11月、東京・東京大学駒場キャンパス、筆者撮影

 愛知県立大学、一橋大学、龍谷大学で、日本アジア関係史、日本社会論、民際学などを講義する傍ら、定住外国人の地方参政権を求める運動に身を投じ、今は朝鮮学校差別問題に取り組む。

 中国人強制連行の賠償問題では、企業側と被害者の間に、画期的な「和解」を実現させた一人でもある。訴訟になれば学者として意見書を出し、市民集会でも発言してきた。戦後の在日・韓国人差別事件の告発や改善の大半に関与している。

 その半生を振り返ってもらいながら、日本人の「内なる差別意識」の底流にあるものを探っていきたい。

アジアの留学生から教わった「千円札の意味」

 田中さんの財布には、きちんと折った古い千円札が入っている。

 その肖像は初代総理大臣の伊藤博文。今の肖像は細菌学者・野口英世だが、その前の作家・夏目漱石の、さらにその前だ。

 1963年11月、聖徳太子に代わって発行され、20余年流通した。その伊藤博文が田中さんの原点。

 東京外語大学中国学科を卒業し、一橋大学大学院へ進んだ田中さんは1962年、アジア文化会館に就職する。「アジア学生文化協会」を創立した社会運動家・穂積五一(ほづみ・ごいち)が留学生を迎えるために開いた。その思想や留学生とのふれあいが、その後深い影響を与える。

 穂積は、第2次大戦直前に「皇道翼賛青年連盟」を結成した中心人物で、天皇制の国体の下、「臣民翼賛組織」を実践するという、今でいう右翼的考えの持ち主だったが、その「実践」はアジア人と平等な関係を築くことだった。

穂積五一さん。1981年、79歳で死去するまでアジアの若者と接し続け、父親のように慕われた=1963年、東京・文京区のアジア文化会館

 傀儡(かいらい)国家・満州への移民に反対し、朝鮮の解放・独立を主張した。朝鮮独立運動の青年をかくまい、開戦に踏み切った東条英機首相を批判。戦後は連合国軍総司令部(GHQ)によって、穂積が舎監を務める「至軒寮」が名称を変更させられたこともある。

田中「台湾、香港、東南アジアからの留学生でした。韓国とはまだ国交正常化していませんでした。そのころは羽田と都心を結ぶモノレールもなく便が悪いなか、私もよく空港へ迎えに行きました。そのころの留学生は、大戦の記憶が残る親の世代から『日本なんかに行くな、ひどい目に遭うぞ』と反対された人も多かったが、『日本はもう、かつてとは違う国に生まれ変わったのだから』と押しきって来た若者もいましたね」

 1963年から64年にかけて。それは、戦後日本にとって大きな転換期であり、飛躍の時期だった。

 1964年東京オリンピックは、「平和国家・日本」の国際舞台デビューだった。東海道新幹線が開業し、テレビ、洗濯機、冷蔵庫の「三種の神器」が爆発的に売れ、高度経済成長がピークに向かっていった。

 ただ、そのなかで田中さんはアジア人の目を通じて気づいた「戦後日本」に衝撃を受ける。きっかけが1963年初冬の新千円札発行だった。

1963年11月1日、全国にお目見えした伊藤博文の新千円札=東京都千代田区の旧住友銀行支店

田中「東南アジアの華人留学生が『伊藤博文は朝鮮民族の恨みを買って暗殺された人でしょう。戦前ならいざ知らず、戦後の新生日本でなぜその人を持ち出すの? 在日朝鮮人も、このお札を使うわけでしょう。日本人は、ずいぶん残酷なことをするんですね。政府を批判する文化人、あまたの知識人たちも、お札のことは誰も批判しない。薄気味が悪い』といわれて驚きましたよ」

 日韓併合前年の1909年、伊藤はハルピン駅で、朝鮮人・安重根(アン・ジュングン)の銃に倒れる。今でも安重根は韓国の英雄であり、伊藤は朝鮮植民地支配の元凶とみられている。

田中「もちろん日本の紙幣だから、良いとか悪いとかは関係ないのだけれど、その華人留学生の指摘にまったく気がつかなかった自分は何だろうと自問した。おかしいじゃないかという日本人が、なぜ誰もいなかったのだろうか。その理由が分からない…」

 振り返ると、このころ、好況の陰で様々な動きがもつれあっていた。戦前回帰というべきか、戦争の悪夢を振り払う「未来志向」というべきか。

大戦の肯定論も登場

田中「硬派の論壇誌『中央公論』で、1963年の9月号から(作家の)林房雄による『大東亜戦争肯定論』という連載が始まり、日韓条約締結の65年6月号まで続く。アメリカが日本を占領していた時代はタブーとされた『大東亜戦争』という言葉、そして『先の戦争はアジアを解放する運動100年の総決算だった』という主張が、論壇に登場したわけです。この時から、大戦は侵略ではなく、やむをえない戦いだったという論調が出て来たわけです」

 さらに1964年4月の昭和天皇の誕生日に、戦後中断していた戦没者の叙勲が復活する。

田中「叙勲の前に受章者の名簿が新聞に載るでしょう。シンガポールの留学生が、私の机に記事の切り抜きを置いていた。戦死した少年兵の親が戦後初の勲章をもらうという逸話の記事でした。留学生が言ったんです。『侵略した日本軍の側の名簿がずらっと載ってますが、殺されたアジアの人たちの名簿が見えてますか?』と。そのころ、シンガポールでは戦後の宅地開発で日本軍による犠牲者の遺骨がたくさん出て来て、その収集が始まったばかりだったのです。偶然でしょうが、その時期と叙勲再開が重なったのです」

 今では恒例行事となった政府主催の「戦没者追悼式典」の原点もそのころだ。「8月15日」と定まったのは1963年からだった。この時は日比谷公会堂で、65年からは日本武道館に場所を移して行われている。

 このころ、日本に何が起きていたのだろう。田中さんにもよく分からない。

1964年1月7日、池田勇人内閣の新春初の閣議で、戦後復活する戦没者叙勲の基準を決めた=首相官邸

日本人が見えなかったアジアの「感性」

田中「後でいろいろ考えると、問題なのは、伊藤博文の登場もさることながら、日本が侵略したアジアの人びとの感性を、日本人はまったく理解できていないことです。軒を並べて暮らしているはずの『在日』がまったく見えてないんですね。戦後、日本は朝鮮人の存在について何も考えてこなかったとしか思えない」

 戦争被害者が被害の原状回復や賠償を求める「戦後補償」「戦時賠償」といわれる裁判は1990年代から数多く提起されてきた。個人請求権は消滅していないという原則の下、中国・朝鮮半島の慰安婦問題や中国の重慶爆撃など、裁判の過程でさまざまな被害の実態が改めて明らかになったケースも多い。

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