ガーナにも「甲子園球場」ができた!(動画あり)
野球人、アフリカをゆく(18)アフリカ野球がもたらした予期せぬ変化とは
友成晋也 一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構 代表理事

ファンケル社の支援により多くの野球道具が届けられた。テマ市で行った野球道具寄贈式で道具を受けとる子供たち
<これまでのあらすじ>
危険地南スーダンに赴任し、過去、ガーナ、タンザニアで野球の普及活動を経験した筆者は、3カ国目の任地でも、首都ジュバ市内に安全な場所を確保し、野球教室を始めた。初めて野球を目にし、取り組む南スーダンの子供たちとの信頼関係も徐々にできてゆく。ようやく試合ができるレベルになってくると、試合前に整列し、礼をする日本の高校野球の形を導入していった。その独自の野球哲学は、ゼロから急速に発展したタンザニア野球での経験で完成するのだが、そこに至るもう一つの欠かせないエピソードが、ガーナであった。
【連載】 野球人、アフリカをゆく
いったいここはどこだ?
3年もの間、かつてあれだけ四駆のハンドルを自ら操って、街の隅々を走り回っていたのに、今はまったく別の街にきたかのようだ。
1996年に着任してから1999年まで3年間住んだ、西アフリカ・ガーナの首都、アクラを2013年2月に再訪した。驚いたのはアクラの発展ぶりだった。
それもそのはず、1990年代、貧困の代名詞だったような国ガーナは、カカオ豆と金に代表される農業と鉱業の1次産品依存経済の国だった。それが、2007年にガーナの西海岸沖で油田が発見されて一変する。2010年12月に原油の商業生産が開始され、2011年の経済成長率は14%を記録する。その年の世界第1位だ。
ケイケイとの再会

Frank Herben/shutterstock.com(ガーナ・アクラの街並み)
「2年前に来たんだけど、アクラはなんか別の街みたいだよ」
夕方到着した空港からタクシーに乗って、赤いTシャツを着た運転手に話しかけると、へへへ、と笑いながら「変わるのは町の様子ばかりで、俺たちの暮らしは変わらないよ」と自嘲気味に言う。「ほんとかい?これだけ新しい豪華なホテルが増えれば、お客さんもさぞ増えてるだろう」と返すと、「えへへ。ぼちぼちですね」とまんざらでもない様子。
ガーナのコトカ国際空港はアクラの市街地のはずれにあり、街の中心部まですぐに行きつく。レストランやファッション系の店が多く集まるOSUという繁華街にあるホテルに着き、車を降りるや否や、声がかかった。
「ミスター・トモナリ!」と、手を挙げながら人懐っこい笑顔で近寄ってきたのは、ガーナ野球連盟会長のアルバート・K・フリンポン。かつて私がガーナ代表チームの監督をしていた時の、ナショナルチームのキャプテンだ。
ホテルで待っていてくれた彼に、彼のニックネームで応える。
「ケイケイ!暑いタンザニアからやってきたけど、ガーナはもっと暑いな!」
「最近は気候変動で昔よりも暑くなりましたよ」
1996年に自称ナショナルチームのキャプテンだった彼と出会い、監督になった私と二人三脚で本格的なナショナルチームに昇格させ、シドニーオリンピック出場を目指した日々から13年が経っていた(当時の話は、『アフリカと白球』(文芸社)に詳しい)。
学校巡回指導記録にこみ上げる懐かしさ
タンザニア勤務の私が、休暇を取得し、6400キロ離れたガーナにやってきたのには理由がある。ホテルにチェックインし、荷解きを終えるやいなや、タクシーを拾ってケイケイと二人で向かった先は、ナショナルスタジアムの中にある、ガーナ野球連盟の事務所だった。
「ミスター・トモナリ。これが活動記録です」。執務机に座ったケイケイが、引出しから厚さ5センチくらいになる書類の束をだして、広げた。向かい側の椅子に座った私は表紙から1枚1枚めくってゆく。
A4縦のレポートのヘッドには「Ghana Koshien Project Activity Record」(ガーナ甲子園プロジェクト 活動記録書)とあり、その下に 氏名、活動場所、参加人数、トレーニング内容などが手書きで書き込まれている。シートの一番下の学校責任者と本人氏名のところに、それぞれサインがされている。
これは、10人の野球コーチたちによる学校巡回指導の記録だ。レポートを書いたメンバーの顔が思い浮かび、懐かしさがこみ上げる。
私がガーナで代表監督を務めていた頃(1997年~99年)、指導していた選手たちは20代前半だった。野球を普及させようと、私は当時の現役選手たちに学校や地域で野球の指導をする機会を創っていた。また。その時、野球を始めた子供たちは小学生から中学生だった。あれから13年がたつので、当時10歳の子は23歳に、15歳の子は28歳になる。その子たちが、今やコーチになっている。私にすれば教え子の教え子。孫みたいなものだ。