野球人、アフリカをゆく(18)アフリカ野球がもたらした予期せぬ変化とは
2019年12月14日
<これまでのあらすじ>
危険地南スーダンに赴任し、過去、ガーナ、タンザニアで野球の普及活動を経験した筆者は、3カ国目の任地でも、首都ジュバ市内に安全な場所を確保し、野球教室を始めた。初めて野球を目にし、取り組む南スーダンの子供たちとの信頼関係も徐々にできてゆく。ようやく試合ができるレベルになってくると、試合前に整列し、礼をする日本の高校野球の形を導入していった。その独自の野球哲学は、ゼロから急速に発展したタンザニア野球での経験で完成するのだが、そこに至るもう一つの欠かせないエピソードが、ガーナであった。
いったいここはどこだ?
3年もの間、かつてあれだけ四駆のハンドルを自ら操って、街の隅々を走り回っていたのに、今はまったく別の街にきたかのようだ。
1996年に着任してから1999年まで3年間住んだ、西アフリカ・ガーナの首都、アクラを2013年2月に再訪した。驚いたのはアクラの発展ぶりだった。
それもそのはず、1990年代、貧困の代名詞だったような国ガーナは、カカオ豆と金に代表される農業と鉱業の1次産品依存経済の国だった。それが、2007年にガーナの西海岸沖で油田が発見されて一変する。2010年12月に原油の商業生産が開始され、2011年の経済成長率は14%を記録する。その年の世界第1位だ。
「2年前に来たんだけど、アクラはなんか別の街みたいだよ」
夕方到着した空港からタクシーに乗って、赤いTシャツを着た運転手に話しかけると、へへへ、と笑いながら「変わるのは町の様子ばかりで、俺たちの暮らしは変わらないよ」と自嘲気味に言う。「ほんとかい?これだけ新しい豪華なホテルが増えれば、お客さんもさぞ増えてるだろう」と返すと、「えへへ。ぼちぼちですね」とまんざらでもない様子。
ガーナのコトカ国際空港はアクラの市街地のはずれにあり、街の中心部まですぐに行きつく。レストランやファッション系の店が多く集まるOSUという繁華街にあるホテルに着き、車を降りるや否や、声がかかった。
「ミスター・トモナリ!」と、手を挙げながら人懐っこい笑顔で近寄ってきたのは、ガーナ野球連盟会長のアルバート・K・フリンポン。かつて私がガーナ代表チームの監督をしていた時の、ナショナルチームのキャプテンだ。
ホテルで待っていてくれた彼に、彼のニックネームで応える。
「ケイケイ!暑いタンザニアからやってきたけど、ガーナはもっと暑いな!」
「最近は気候変動で昔よりも暑くなりましたよ」
1996年に自称ナショナルチームのキャプテンだった彼と出会い、監督になった私と二人三脚で本格的なナショナルチームに昇格させ、シドニーオリンピック出場を目指した日々から13年が経っていた(当時の話は、『アフリカと白球』(文芸社)に詳しい)。
タンザニア勤務の私が、休暇を取得し、6400キロ離れたガーナにやってきたのには理由がある。ホテルにチェックインし、荷解きを終えるやいなや、タクシーを拾ってケイケイと二人で向かった先は、ナショナルスタジアムの中にある、ガーナ野球連盟の事務所だった。
「ミスター・トモナリ。これが活動記録です」。執務机に座ったケイケイが、引出しから厚さ5センチくらいになる書類の束をだして、広げた。向かい側の椅子に座った私は表紙から1枚1枚めくってゆく。
A4縦のレポートのヘッドには「Ghana Koshien Project Activity Record」(ガーナ甲子園プロジェクト 活動記録書)とあり、その下に 氏名、活動場所、参加人数、トレーニング内容などが手書きで書き込まれている。シートの一番下の学校責任者と本人氏名のところに、それぞれサインがされている。
これは、10人の野球コーチたちによる学校巡回指導の記録だ。レポートを書いたメンバーの顔が思い浮かび、懐かしさがこみ上げる。
私がガーナで代表監督を務めていた頃(1997年~99年)、指導していた選手たちは20代前半だった。野球を普及させようと、私は当時の現役選手たちに学校や地域で野球の指導をする機会を創っていた。また。その時、野球を始めた子供たちは小学生から中学生だった。あれから13年がたつので、当時10歳の子は23歳に、15歳の子は28歳になる。その子たちが、今やコーチになっている。私にすれば教え子の教え子。孫みたいなものだ。
今回私がガーナに来た目的は、「ガーナ甲子園プロジェクト」のモニタリングだった。
ここで、2011年3月に始まったこのプロジェクトの概要を簡単に説明しよう。
アフリカの国々の野球選手の最大のモチベーションはオリンピックだった。そのための予選となる国際大会があり、それに参加するために国が予算を出す。ところが、2008年の北京オリンピックを最後に野球はオリンピック種目から外れた。アフリカ野球界にとって大きな打撃だった。目標を失っただけではなく、オリンピック競技でなくなると国の予算も出なくなる。ただでさえマイナースポーツだった野球はますますマイナー化し、選手たちのモチベーションも下がってしまう。
大正時代に始まる甲子園大会は、100年を超える歴史を誇る日本野球の代名詞ともいえる存在だ。全国の都道府県大会予選を勝ち抜いたチームが地域の代表として日本一を目指す全国大会。1924年にこの大会のために建設された阪神甲子園球場は、まさにその象徴的な存在であり、そこで試合をすることを夢見て、球児たちは3年間努力をする。
実際に甲子園に出場できるのは全国約4000の参加校のわずか1.2パーセント。強豪校と言われるごく一部の学校以外の野球部は、出場を目標とすること自体、現実的ではない。そうであったとしても、甲子園という大きな目標に向かって球児たちは日々精進し、汗を流す。その姿に日本人の多くが共感し、それがまた球児たちのモチベーションになる。
これはアフリカでも使える。オリンピック種目でなくなった野球の振興のために、アフリカ各国に甲子園大会のような全国大会を創ってはどうか。そう考えたのだ。
第一弾の国として、私が心血注いで育て、知人も多いガーナを選んだ。すでに野球連盟会長となっていたケイケイらガーナの野球関係者を集めて、「ガーナ甲子園プロジェクト」について協議をしたのは2011年3月だった。
プロジェクトの柱は、①全国大会開催までのロードマップを作り、②まずはアクラと隣町のテマを中心に、小、中、高校に野球部を設立するよう学校に働きかけ、③コーチが巡回指導しながら多くの学校の指導を行う。④増える野球人口に対応するため、中古野球道具を日本で集めて送る。⑤本格的に整備された野球場の建設を計画する――の五つ。
映像は大阪に事務所のある高校野連盟(高野連)からいただいたものだった。「ガーナ甲子園プロジェクト」の趣旨やプロジェクト名や球場名に「甲子園」を使いたい旨を説明に行った際、了承してもらうとともに、高校野球と甲子園大会を紹介する映像としていただいたのだ。ありがたいことに英語の字幕が入っている。
厳しい練習や試合を通じて規律やチームワークを育むこと、負けることからも学ぶことがあることなどの54分の映像だったが、これがガーナ人の関係者にとても響いた。こうして「ガーナ甲子園プロジェクト」が始まった。
◇ガーナ甲子園プロジェクトの紹介映像
ケイケイと訪れた最初の学校では、少し、いや、かなりふくよかな年配の女性校長がどしっと執務机に座って待っていてくれた。体育の30代とおぼしき男性教員も同席している。
「はじめまして! アフリカ野球友の会の代表の友成と申します。隣にいるのはガーナ野球連盟会長のアルバート・フリンポンです」
女性校長は、「遠くからようこそ!」と言いながら、にこやかな表情で椅子に着席を促し、「ガーナは初めて?」と気さくに質問してくれた。
「私は13年前まで3年間、ガーナに住んでいて、ナショナル野球チームの監督をしていたんです。アルバート会長は、当時のナショナルチームのキャプテンだったのです」と言うと、「あら、そうなの。あなたたちはガーナの野球を盛んにしてくれたのね」と優しそうな目で二人を交互に見る。話しやすい雰囲気ができたところで、さっそく本題に入った。
「今日来たのは、この学校で活動している野球クラブのことです。アフリカ野球友の会は、コーチを派遣していますので、モニタリングを行うため、いろいろ質問させてください」
「野球クラブのことね。コーチは熱心によくやってくれているわ」とのっけから好感触である。手元にあるインタビューシートにそって質問をする。校長先生や体育の先生の名前、野球クラブの活動の内容、コーチの指導の様子と評価、謝金の支払いの有無、などなど。次の質問は少し抽象的だ。
「野球部ができてから1年ちょっとですが、部員の生徒たちになにか変化はありましたか?」。校長先生は、ちょっと宙を見上げ、少し間をおいてから「変化、あったわ」と言い切った。
「どんな変化でしたか?」と訊き返すと、間髪入れず、意外な答えを返した。
「野球をやる子たちは成績がいいのよ」
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