「政治主導」を唯一理解したのは小沢一郎だった
(26)国家戦略局を設定した松井孝治がみた小沢一郎・上
佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長
経済財政諮問会議を生んだ橋本行革
松井孝治は、京都の老舗旅館の次男として生まれ、東大教養学科在学中に国家公務員上級職試験に合格。この時期に、高度経済成長を推進した通産(現経産)官僚の苦闘を描いた城山三郎の小説『官僚たちの夏』を読み、通産省入省を決めた。
通産省入省後は基礎産業局を振り出しに各局を歩き、その後内閣官房に出向して首相の橋本龍太郎が主導した「橋本行革」に携わった。橋本行革は、官邸機能の強化とともにそれまで22あった省庁を1府12省庁に削減する省庁再編などをはじめとした行政改革だが、松井はこれにかなり深く関わっている。
1996年9月11日、橋本は日本記者クラブ主催の講演会に臨み、この構想を初めて口にしたが、草稿を書いた人物が松井だった。この講演は、首相が初めて構想を明らかにしたということでかなり話題になった。
講演では、省庁半減や首相官邸機能の強化、さらには予算編成機能や国家公務員人事の機能を首相官邸の下に中枢機能として置けないか、といったことにまで触れていた。(『小沢一郎「実は財源はいくらでもあるんだ」』参照)
――1996年9月の橋本首相のスピーチは松井さんが書かれたわけですが、かなり思い切った案ですよね。
松井 首相官邸機能の強化や省庁の半減などを相当思い切って書いています。その中で、予算編成の機能や幹部公務員人事の機能を総理の下に置けないかという問題提起についても、橋本総理自身の言葉で明言しているものですから、当時は相当話題になりました。
――予算編成から人事、行政管理の機能を官邸の下に置き、省庁横断的な強力なプロジェクトチームを官邸に設置して、無任所大臣を活用できないか、ということですから、これは国家戦略局の姿に近いですよね。
松井 私自身は、実は国家戦略局と内閣人事局が官邸主導の車の両輪だと思っていて、それは、予算編成とか人事のすべてを総理がやるわけではありませんけど、やはり財政的資源配分と人的資源配分の枢要なところは官邸が司令塔機能と権限を持つということが非常に大事だと考えています。
縦割りの弊害を是正するためにも、国民主権の発動という意味でも、戦略的に国が取るべき方向性というものを首相が明確にリーダーシップをもって示していくことが必要だと思います。私自身、橋本行革前に官邸に勤務していて、そこが日本の政治の中で一番大事なところだと痛感していました。
――私も大蔵省(現財務省)の記者クラブなどで毎年のように年末の予算編成を見ていて、こういう形でいいのかなと疑問に感じていました。そこで、1996年10月に、内外情勢調査会の年次総会で、橋本首相が再び踏み込んだ提言をされましたね。歳入・歳出、財政投融資、地方財政、社会保障などの審議会を統合して総理に直結した機関による運営を図れないかと。さらに無任所大臣を設置して、機動的、弾力的に当たるということですね。これも、ベースになるものは松井さんが書かれたんですか。
松井 はい。9月11日の記者クラブの演説の反響が非常に大きかったものですから、そこをもう少し踏み込んでいくということでした。9月11日のものを具体化していくために、中身についてさらに踏み込んで提言できないかという話で、総理秘書官と話をしながら書きました。
審議会統合の問題意識は、国会答弁などで総理もおっしゃっていたものですから、そこをベースにしてちょっと踏み込んで書いてみたということです。草稿をご覧になった橋本総理は「こういうことなんだよな」とまさにおっしゃっていました。
その後、私も橋本行革にコミットしますけど、この表現のあたりが経済財政諮問会議の創設につながっていくところだと思います。

小沢一郎新進党党首との会談に臨む橋本隆太郎首相= 1996年4月22日、首相官邸
――実際に経済財政諮問会議ができて、実際にそれを大いに活用したのは橋本さんではなくて、小泉純一郎さんだったわけですね。
松井 そうですね。経済財政諮問会議は、行革会議の中ではさほど論点になったわけではないです。そこは比較的スムーズに決まっていくんです。そんなにスポットライトが当たっていたわけでもないですね。その後2001年の総裁選で、橋本さんは小泉さんと戦って敗れ、小泉さんが経済財政諮問会議を非常に上手に活用されたんだと思います。