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「政治主導」を唯一理解したのは小沢一郎だった

(26)国家戦略局を設定した松井孝治がみた小沢一郎・上

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

松井孝治が見た小沢一郎の功罪

 何度か指摘したが、第2次安倍政権になって議論のレベルが格段に低下した問題領域がある。あるいは、安倍政権が提起する論議のレベルがあまりに低レベルなため、問題自体がいつのまにか蒸発して消えてしまった感さえある。それは、明治以来の日本政治の「通奏低音」とも言うべき「政官関係」である。

 実質的に「官」の側が持つ予算編成権を「政」の側が取り戻す。これは、明治の天皇制官僚国家機構に対して政党側が挑み続けてきた最大テーマだった。

 挫折したとはいえ、2009年に誕生した民主党政権は、日本政治史上ほとんど初めてその総合的な構想を目に見える形にし、現実の予算案でも、国民経済の側に立った政治の力を大きく振るった。

 2010年度政府予算案編成の際、国民経済のために文字通り大ナタを振るったのは、この「小沢一郎戦記」の主人公、小沢一郎だった。

 歴史的使命を終えていたにもかかわらず、ほとんど自民党の集票目的のためのみに存続していた土地改良補助金をバッサリ半分以下に切り落とし、削った分を農産物自由化の将来に備える農業者戸別所得補償制度の創設に回した。

 将来の日本経済にとって本当に必要なところに財源を回していく。このことこそ、本来の「政治主導」の姿であり、小沢はその大胆なモデルを示したとも言える。

 そしてもうひとつ、予算編成権を「政」の側に取り戻す構想を描き、そのシステムを現実のものとして見せる役割を果たしたのは、当時の民主党参院議員で鳩山内閣の官房副長官を務めた松井孝治(現・慶應義塾大学教授)だった。当然と言えば当然だが、松井は、同じ「政治主導」の方向性を志向する小沢について、こう振り返っている。

 民主党政権樹立期に、マニフェストに規定した政策決定の政府与党一元化に理解を示した唯一の大物指導者は、小沢一郎幹事長であった。(「「公」を紡ぎ直し、「質的成長」へと転換するために 「新しい公共」の思想とは何か」『世界』2015年2月号・岩波書店)

 「政治主導」を別の言葉で言い表す「政府与党一元化」を本当に理解していたのは、菅直人や鳩山由紀夫、岡田克也らではなく、小沢ひとりだけだったと断言しているのだ。国家戦略局という、予算編成権を政治の側に取り戻す構想を描いた松井の言葉は重い。

 この言葉は、「政治主導」の意味を現実政治の中で真に理解し、実現させる努力を払っていたのは小沢ひとりだったということを意味している。そして、この事実は前回の『小沢一郎「このまま死ねない」そして山本太郎』で明快に示した。

 だが松井は、この言葉のすぐ後でこう続けている。

 しかし小沢氏は、この表看板に則り党の政調会、その各部会を廃止しつつも、みずからの下に業界や地方からの陳情要望本部を一元的に組織化し、選挙時の組織的協力体制とセットで、今や自民党内でも珍しいほど中央集権的に予算査定に辣腕をふるった。(同)

 ここで松井が「陳情要望本部」と呼ぶのは、同じ『小沢一郎「このまま死ねない」そして山本太郎』で小沢のインタビューとともに紹介した当時の民主党幹事長室の仕事のことだ。

 2010年度予算案編成をめぐり民主党政権が立ち往生している事態を受け、党幹事長だった小沢が「助け船」を出したことはそのインタビューで明らかになった。個別の陳情は受け付けなかったことも小沢は証言している。

 また、「辣腕をふるった」のは、先に紹介した土地改良補助金の大幅削減や農業者戸別所得補償制度の創設などの分野で、これこそはまさに「政治主導」の典型的な政策と言える。このため、「中央集権的に予算査定に辣腕をふるった」という表現は当たっていない。

 この部分は、私の見る限り、松井が将来的な社会の形として目指す「分散・ネットワーク型の公共政策のモデル」=「新しい公共」の姿を理想として念頭に置きながら、古い政治モデルが永田町のあちこちに色濃く残る2009年の現実政治の中で苦闘していた小沢らの営為を裁断する「勇み足」的評言と言える。

 しかし、これら一連の言葉に見られるように、松井は民主党内の対立から距離を置き、「政治主導」を目指す民主党政権を客観的に眺めていた。

 何より、民主党政権の大きい目玉であった国家戦略局を設計した当人であり、なぜこの目玉政策が実現しなかったのか、その経緯をつぶさに語ってもらうことは、安倍政権以後の日本政治を考える上で重い意味を持つ。

 「小沢一郎戦記」は今回と次回で松井の言葉に耳を傾け、「政治主導」の真の問題と小沢一郎との関係を考えてみたい。

松井孝治さん

経済財政諮問会議を生んだ橋本行革

 松井孝治は、京都の老舗旅館の次男として生まれ、東大教養学科在学中に国家公務員上級職試験に合格。この時期に、高度経済成長を推進した通産(現経産)官僚の苦闘を描いた城山三郎の小説『官僚たちの夏』を読み、通産省入省を決めた。
 通産省入省後は基礎産業局を振り出しに各局を歩き、その後内閣官房に出向して首相の橋本龍太郎が主導した「橋本行革」に携わった。橋本行革は、官邸機能の強化とともにそれまで22あった省庁を1府12省庁に削減する省庁再編などをはじめとした行政改革だが、松井はこれにかなり深く関わっている。
 1996年9月11日、橋本は日本記者クラブ主催の講演会に臨み、この構想を初めて口にしたが、草稿を書いた人物が松井だった。この講演は、首相が初めて構想を明らかにしたということでかなり話題になった。
 講演では、省庁半減や首相官邸機能の強化、さらには予算編成機能や国家公務員人事の機能を首相官邸の下に中枢機能として置けないか、といったことにまで触れていた。(『小沢一郎「実は財源はいくらでもあるんだ」』参照)

――1996年9月の橋本首相のスピーチは松井さんが書かれたわけですが、かなり思い切った案ですよね。

松井 首相官邸機能の強化や省庁の半減などを相当思い切って書いています。その中で、予算編成の機能や幹部公務員人事の機能を総理の下に置けないかという問題提起についても、橋本総理自身の言葉で明言しているものですから、当時は相当話題になりました。

――予算編成から人事、行政管理の機能を官邸の下に置き、省庁横断的な強力なプロジェクトチームを官邸に設置して、無任所大臣を活用できないか、ということですから、これは国家戦略局の姿に近いですよね。

松井 私自身は、実は国家戦略局と内閣人事局が官邸主導の車の両輪だと思っていて、それは、予算編成とか人事のすべてを総理がやるわけではありませんけど、やはり財政的資源配分と人的資源配分の枢要なところは官邸が司令塔機能と権限を持つということが非常に大事だと考えています。

 縦割りの弊害を是正するためにも、国民主権の発動という意味でも、戦略的に国が取るべき方向性というものを首相が明確にリーダーシップをもって示していくことが必要だと思います。私自身、橋本行革前に官邸に勤務していて、そこが日本の政治の中で一番大事なところだと痛感していました。

――私も大蔵省(現財務省)の記者クラブなどで毎年のように年末の予算編成を見ていて、こういう形でいいのかなと疑問に感じていました。そこで、1996年10月に、内外情勢調査会の年次総会で、橋本首相が再び踏み込んだ提言をされましたね。歳入・歳出、財政投融資、地方財政、社会保障などの審議会を統合して総理に直結した機関による運営を図れないかと。さらに無任所大臣を設置して、機動的、弾力的に当たるということですね。これも、ベースになるものは松井さんが書かれたんですか。

松井 はい。9月11日の記者クラブの演説の反響が非常に大きかったものですから、そこをもう少し踏み込んでいくということでした。9月11日のものを具体化していくために、中身についてさらに踏み込んで提言できないかという話で、総理秘書官と話をしながら書きました。

 審議会統合の問題意識は、国会答弁などで総理もおっしゃっていたものですから、そこをベースにしてちょっと踏み込んで書いてみたということです。草稿をご覧になった橋本総理は「こういうことなんだよな」とまさにおっしゃっていました。

 その後、私も橋本行革にコミットしますけど、この表現のあたりが経済財政諮問会議の創設につながっていくところだと思います。

小沢一郎新進党党首との会談に臨む橋本隆太郎首相= 1996年4月22日、首相官邸

――実際に経済財政諮問会議ができて、実際にそれを大いに活用したのは橋本さんではなくて、小泉純一郎さんだったわけですね。

松井 そうですね。経済財政諮問会議は、行革会議の中ではさほど論点になったわけではないです。そこは比較的スムーズに決まっていくんです。そんなにスポットライトが当たっていたわけでもないですね。その後2001年の総裁選で、橋本さんは小泉さんと戦って敗れ、小泉さんが経済財政諮問会議を非常に上手に活用されたんだと思います。

官邸主導を警戒した大蔵省

――経済財政諮問会議を外側から見ていて「大蔵省は何を考えているのかな」とよく考えました。経済財政諮問会議は予算編成機能の大きなところを捉えていましたので、大蔵省自身も「あれ?」と思ったんじゃないか、という気がするんですが。

松井 橋本行革の時、予算編成が官邸主導になることについて、大蔵省はすごく警戒していました。けれども、経済財政諮問会議程度であれば、使う首相は使うだろうけど、それが大蔵省の位置づけを変えるほどのものではないと考えていたと思います。当時は、財政と金融の分離問題が非常に大きなイシューでしたから。

 そこを、小泉さんと、担当大臣の竹中(平蔵)さんが、予算編成の前の大きな枝振りを決める骨太方針というものを置いて、そこから予算編成に入っていくという政策立案の新たなプロセスを採用しました。初年度あたりには、大蔵省も焦ったのではないかと思います。

 しかし、彼らのことですからそこは上手に活用したと思います。財政の健全化とは矛盾しませんから、うまく活用すれば財政健全化に有効に働きます。上手にこれを使わない手はないと方針転換したんじゃないですかね。

経済財政諮問会議にのぞむ小泉純一郎首相。手前は竹中経済財政担当相=2002年8月29日、首相官邸

――財金分離については1998年のころ、私は直接取材して、政治の動きもダイレクトに目撃しましたが、そちらの方が大蔵省としては厳しい話だったわけですね。

松井 内閣財政局や国家戦略局を作るということであれば大蔵省にとっては大変なことだったでしょうが、経済財政諮問会議というある種の審議会を作るという話ですから、自分たちの存立を危うくするようなものではないと考えていたでしょう。財金分離こそが、大蔵省にとっては、橋本行革の中で死活的な課題であったと思います。

――そうすると、経済財政諮問会議は、松井さんが考えていたものよりも少しマイルドな形のものだったのですね。

松井 最初の橋本総理のスピーチでは「予算編成、人事、あるいは行政管理の機能を官邸の下に置けないものだろうか」と述べていますが、発想は国家戦略局と同じです。司令塔を置くということですので。ただ、その経済財政諮問会議を内閣官房ではなくて、内閣府というちょっと外側の組織に置いて、しかも審議会という形を取っているので、最初の原案に比べれば多少マイルドにはなっていると思います。

 私も行革会議に出向していましたが、橋本総理も、どうしても内閣に財政局みたいなものを作っていくんだという発想ではなかったし、仮に内閣財政局を作ったとしても、大蔵省から予算編成機能を取り上げるとかというものではなく、首相直轄の組織は骨格編成にとどめ、予算自体はその骨格を踏まえて大蔵省が作成するという二段階にするという趣旨だったと思います。

 経済財政諮問会議については、大きな前進だと思っていました。骨太方針から予算編成への流れもさることながら、三位一体改革とか郵政民営化など、各省のイニシアティブ待ちではなく、重要事項について官邸と民間委員の意思疎通の中で、意思決定のバイパスやお白洲の機能を発揮しましたから。ただ、その後の政権交代とかを見越して、やっぱりそれを強化していきたいという気持ちは持っていました。

――念のためにおうかがいしたいんですが、例えば年末の予算編成などを毎年見ていて、どのあたりについて「これでいいのかな」と疑問を持たれたのですか。

松井 国の予算の枝振りを決めるというところですね。財務省の皆さんはすごく優秀だし、官僚中の官僚だと思います。財務省は各省との関係でオールラウンドにすべての省の予算を見ています。

 主計官とか次長、そして主計局長がいますが、各省との官僚同士の折衝でどこか特定のところに恥をかかせるわけにはいかない。どうしても霞が関の各省庁の収まりというものをある程度考えて調整をしていく。その調整の限りではやっぱり大ナタは振るえないんですね。そこは政治家が大ナタを振るって、大胆な選択と集中を政治が責任を持ってやらなければならないと思っていたんです。

 特定の政策を重点化するために最初からどこかの役所に少し割を食ってもらう、財源の捻出のためにどこかの部署に財政的に皺寄せせざるを得ないというようなことは、政治の意思、しかもトップリーダーの意思で決めるものです。そういう政治決断のシナリオを作っていく部署が、小さい部局でもいいから必要で、そこが財務省と密接に連携してやっていく、ということです。

 そういうものがなくて各省の官僚任せだけで議論していると、隈取りのぼやけたような予算や切れ味の悪い政策にとどまってしまうケースが多いのではないかという思いを持っていました。今でも、やっぱり必要だと思います。

予算編成への関与に消極的だった菅直人

――よくわかりました。そして、いよいよ民主党政権になって鳩山由紀夫さんからの特命で「ちょっと書いてくれ」となりました。その前に、民主党のマニフェストをずっとチェックしていくと、その構想は、内閣財政局、それから国家経済会議となり、呼び方は違いますが、経済を主眼として、最後は国家戦略局となっていきます。基本的な疑問ですが、これは経済財政だけが担当ですか。それとも、外交ということも考えていたのですか。

松井 もちろん外交もありうると思っていましたが、基本的には、内政改革にずっと関心を持っていたものですから。内閣を満遍なくミニチュアにして何でもかんでも国家戦略局を司令塔にするというよりは、やっぱり内閣財政局的なものが中心のイメージでした。

 国家戦略局という名前からしても、まさにNSC的な組織こそ必要ではないかという議論もあって、もちろん否定はしませんが、私がずっと追いかけてきたのは、財政を中心にした内政面での司令塔ということでした。

 松井は別のインタビューで、現実政治の中で国家戦略局が挫折した原因を問われて、こう答えている。(丸括弧内は引用者注)
 「国家戦略局担当相の菅(直人)さんが、予算編成にかかわることに消極的だったことが、一つの原因でした。(2009年)9月18日に内閣総理大臣決定ということで国家戦略室が設置されましたが、その際の文書には「税財政の骨格」と書かれていますから、予算編成について経済財政諮問会議で言うところの「骨太方針」のようなものを出すことを最低限やらなければならなかったのですが、菅さんからはその意思はあまり感じられませんでした。むしろ行政刷新会議の仙谷(由人)さんの方が、財務省の役人を使って事業仕分けに入り、そこから予算編成の方に突っ込んでいくというかたちになりました。」(山口二郎、中北浩爾『民主党政権とは何だったのか――キーパーソンたちの証言』岩波書店)

市場関係者らと初の意見交換会に臨む菅直人副総理・経済財政担当相(中央)=2009年10月2日、東京・霞が関

――国家戦略室が実際にスタートしてみると、松井さんは別のインタビューに率直に答えられていますが、菅さんが消極的だったということですね。これはやはり驚かれましたか。

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