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憲法9条が信頼の源、中村哲さんの言葉③

アフガンで井戸を掘り、用水路を造り、砂漠を緑にした医師の声

「論座」編集部

 亡くなったNGO「ペシャワール会」の現地代表で医師の中村哲さん(73)は、アフガニスタンで活動する自分たちが日本の平和憲法によって守られていることを繰り返し語ってきた。命がけの現場からの言葉と、改めて向き合う。(いずれも朝日新聞記事より抜粋、日付は紙面掲載日)

憲法改正を論議するのは、50年早い

中村哲中村哲さんを悼みキャンドルをともす有志たち=2019年12月7日、京都市の三条大橋

2007年7月15日
 「60歳の憲法と私」がテーマのインタビューで

 9・11テロの後、米国の空爆を日本政府が支持した直後から、アフガニスタン国内の対日感情が急速に悪くなるのを感じた。

 (ペシャワール会の日本人スタッフが現地の人々と力を合わせて築いた13キロの用水路で)約6千ヘクタールに水が届く。続いて第2期7キロの建設に取りかかる。2年後の完成でさらに約1万ヘクタールの砂漠を緑化できる。13キロ分の建設費8億円は、趣旨に賛同した日本の方々から寄せられた。これで十数万人の離村を防ぐことができた。水を得て、パキスタンの難民生活から村に帰った農民は「貧しくても、自分で働いて食うことは、難民生活よりも1千倍ましだ」と、喜んでいた。

 日本政府がした「国際貢献」は、旧欧米列強の発想を引きずっているとしか感じられない。かえってアジアで普通に暮らす人々の反感を買った。その資金を真の友好に使えば、一体どれほどのおつりが来るだろう。

 国益とはなにか。「国際社会」や「国際貢献」を語る人々が、実は「国賊」ということもありうる。9条を変えようと言う人は、戦争の実態を知っているのだろうか。だまされてはいけない。200万人もの若者を死に追いやった戦争から、まだわずか60年しかたっていない。むしろ9条は永遠に変えないことを、この際決議すべきだ。日本人が憲法改正を論議するのは、まだ50年早い。

2008年2月24日
 海上自衛隊によるインド洋での多国籍軍への給油支援再開についての取材に答えて

 アフガニスタンの復興支援に携わる者として、非常に迷惑な話だ。

 現地では、タリバーンの実効支配地域が拡大している。国民の半数以上が飢えている状況に、軍隊を送って暮らしや文化・慣習を荒らす外国への反感が高まっているためだ。日本政府が洋上給油を国際貢献の象徴だと声高に叫べば、米軍と一体視され、対日感情の悪化につながる。それは、現地での復興支援活動を困難にするものだ。

 最近、日本政府が軍民一体型の「地域復興支援チーム」(PRT)に途上国援助(ODA)資金を出していることが、日本で報じられた。

 私たちの診療所にも、軍服姿の者たちが突然、装甲車で乗りつけ、薬を配らせてほしいと言われたことがある。診察もなしに投薬するのは危険だと断ったが、PRTの実態は軍による宣撫(せんぶ)工作に過ぎない。道路を造るにしても、戦闘地域に通じる道路を優先する。現地では、PRTと米軍は一体だと誰もがみている。

 そこに日本の資金が使われていることも、現地では知られている。それでもこれまで、日本の復興支援は評価されてきた。しかし、軍事プロセスへのかかわりがさらに強調されるようになれば、その評価がどうなるかは危うい。

 給油再開が決まって、アフガニスタンへの関心が日本国内では薄れていると聞く。今までもそうだったが、日本が海外で軍事力を行使することの意味を、誰も真剣に受け止めていない気がする。現地では、落とされる爆弾で、多くの人が身近で死んでいる。「米国の戦争」の一員として自分の国もかかわっているとなれば、穏やかではない。

 日本政府は、民生一本に絞って支援をすべきだ。軍事プロセスとはいっさい手を切って、食糧・インフラ分野を中心に支援をすれば、国際貢献の場での日本のプレゼンスはとても大きくなるはずだ。

無政府状態のアフガンから

中村哲用水路工事の指揮をとる中村哲さん=2008年、アフガニスタン、ペシャワール会提供

2008年11月9日
 オピニオン面「耕論」でアフガン復興への道を語って

 日本で、アフガニスタンにおける「対テロ戦争」支援のための給油の延長が議論されている。そのアフガンは事実上の無政府状態だ。日本人を少しずつ帰していた矢先に、わが会のワーカー伊藤和也君の殺害事件が起きた。言葉がない。人は身近な所でしか、他者の死を感ずることができない。だが、人の死を政治的に利用することは許されることではない。「尊い犠牲がでたが、だからこそテロとの戦いに積極的に関与することは重要」と政府要人が発言するのを聞けば、私の心中は穏やかではない。

 「テロとの戦い」は8年目になったが、アフガンでは米軍や国際治安支援部隊(ISAF)の活動が、暴力の連鎖を生んでいる。「誤爆」で子供や女性を殺され、親兄弟が報復社会の中で戦闘要員になっていく。1人の外国兵の死亡の背後には、100倍のアフガン人の犠牲があることへの想像力が欠けている。

 干ばつによる数百万人が直面する飢餓とともに、反政府勢力の拡大と治安悪化の悪循環を作る。過ちを改むるに憚(はばか)ることなかれという。いま外国軍がやっている「対テロ戦争」は過ちを飾るものだ。日本のインド洋での給油活動がその「悪循環」に加担していることを忘れてはならない。

 タリバーン運動は、確かにアルカイダなどの外国勢とのかかわりはあるが、基本的にアフガンの伝統文化に根ざした保守的な国粋運動の色彩が強い。無頼漢もいるが、旧タリバーン政権の指令一つで全部動いているわけではない。

 「武装勢力」といっても、アフガン農村は兵農未分化の社会だ。パキスタンとアフガンの国境地帯(部族自治区)はアフガン人と同じパシュトゥン民族だから武装勢力がパキスタン側に逃げ込む。あの出撃拠点をつぶさなければという理屈で、米軍が主権を無視して無神経に攻撃する。ここでも報復の連鎖が始まりパキスタンでも戦火が広がろうとしている。

 昨年、インド洋での給油延長問題が報道されたことで、現地では「えっ、日本はそんなことをしていたのか」と驚かれた。親日感情は消えていないが、外国人を打ち払う「攘夷(じょうい)主義」が確実に日本を標的とする日が来る。だが、まだ間に合う。軍事協力を一切しないという宣言だけで、日本への好感は回復するだろう。

 アフガニスタンは、干ばつ前には穀物自給率が9割を超えた農業国家だ。農民たちが生存できるような条件を備えることこそ、治安安定への近道でありテロ対策である。期待されるのは、干ばつ対策で灌漑用水路の整備や治水工事である。農民は、水さえあれば決して貧しくはない。

 いま求められる視点は、米国の顔色をうかがうことや日本国内での受けの良さでなく、アフガンの地で生きる人々にとって、何が大事かを見極める努力だ。焦ることはない。軍事によらない息長い支援の姿勢を、明確に打ち出すことがなにより大切だ。

中村哲アフガニスタン・カブールの国内避難民キャンプ=2009年11月

自立の村つくる、最後の仕事に

中村哲干ばつで荒涼とした大地が広がるアフガニスタン東部=2005年5月、ペシャワール会提供

中村哲開通した水路周辺によみがえった緑=2009年4月、ペシャワール会提供

2010年6月16日
 福岡市内での取材に

 アフガニスタンでは水不足をどう解消するのかが最大のインフラ整備だ。(農業用水路を完成させた事業は)本質に迫る復興のあり方だった。用水路によって、これまで農地でなかった場所で農地に変わるのが1100ヘクタール。うち200ヘクタールを、建設に従事したアフガニスタンの人が生活していけるよう開墾したい。万が一、我々の資金援助が途絶えても、少なくともそこで自立できるという、『屯田兵』村と呼べるような自立定着村、共同体をつくりたい。

 (取材当時63歳だった)体力なんかも考えると、70歳までは頑張れる。その間に、米軍も撤退するし、アフガニスタンが混乱期も乗り越えて、それなりに話の分かる政権もできるという想定だ。あと7年か、8年になるか、6年なのか、分からないが、最後の仕事になるんじゃないか。

2014年5月17日
 安倍首相が集団的自衛権の行使容認を検討すると表明したことについて取材に答えて

 自衛隊がここに来たら、私は逃げなければならない。武力を使う日本に対する敵意が、アフガン人の中に生まれてしまう。活動はこれまでになく危険になる。

 この時点でも中村さんは危機管理には細心の注意を払っていた。宿舎から作業場への移動ルートや時間帯も変え、現地の人とは政治的な会話を避け、地元の習慣にそぐわない行動は慎んで、危険を回避してきた。

 (仮に日本が集団的自衛権の行使で米軍と軍事行動をともにすれば)注意すれば大丈夫、というレベルではない。ここでの活動はもう無理だ。私たちに何かあれば、主権国家として現地の政府や警察が動いてくれる。武力でトラブルを起こすようなまねはしないでほしい。政府の方針は、会の活動を脅かすものにしか思えない。

見返りを求めず、軍事力に頼らず

中村哲中村哲さん=2016年

2016年1月30日
 オピニオン面でのロングインタビューで

 米軍などが「対テロ戦」を掲げ、タリバーンが支配するアフガニスタンを空爆してから15年。タリバーン政権は倒れたものの、いまだ混乱は収まらず、治安も悪化したままだ。この国の復興を、どう支えるか。

 私たちが活動しているアフガン東部は、旧ソ連が侵攻したアフガン戦争や、国民の1割にあたる200万人が死んだとされる内戦のころより(治安が)悪い。この30年で最悪です。かつて危険地帯は点でしたが、今は面に広がった。地元の人ですら、怖くて移動できないと言います。ただ、我々が灌漑し、農地が戻った地域は安全です。

 タリバーンは海外からは悪の権化のように言われますが、地元の受け止めはかなり違う。内戦の頃、各地に割拠していた軍閥は暴力で地域を支配し、賄賂は取り放題。それを宗教的に厳格なタリバーンが押さえ、住民は当時、大歓迎しました。この国の伝統である地域の長老による自治を大幅に認めた土着性の高い政権でした。そうでなければ、たった1万5千人の兵士で全土を治められない。治安も良く、医療支援が最も円滑に進んだのもタリバーン時代です。

 欧米などの後押しでできた現政権は、タリバーンに駆逐された軍閥の有力者がたくさんいるから、歓迎されにくい。昼は政府が統治し、夜はタリバーンが支配する地域も多く、誰が味方か敵かさっぱり分からない。さらに(過激派組織)イスラム国(IS)と呼応する武装勢力が勢力を伸ばし、事態を複雑にしています。

 (戦争と混乱の中で約30年)日本が、日本人が展開しているという信頼が大きいのは間違いありません。アフガンで日露戦争とヒロシマ・ナガサキを知らない人はいません。3度も大英帝国の侵攻をはねのけ、ソ連にも屈さなかったアフガンだから、明治時代にアジアの小国だった日本が大国ロシアに勝った歴史に共鳴し、尊敬してくれる。戦後は、原爆を落とされた廃虚から驚異的な速度で経済大国になりながら、一度も他国に軍事介入をしたことがない姿を称賛する。言ってみれば、憲法9条を具現化してきた国のあり方が信頼の源になっているのです。

 NGOにしてもJICAにしても、日本の支援には政治的野心がない。見返りを求めないし、市場開拓の先駆けにもしない。そういう見方が、アフガン社会の隅々に定着しているのです。だから診療所にしろ用水路掘りにしろ、協力してくれる。軍事力が背後にある欧米人が手がけたら、トラブル続きでうまくいかないでしょう。

 (「平和国家・日本」というブランド)その信頼感に助けられて、何度も命拾いをしてきました。診療所を展開していたころも、『日本人が開設する』ことが決め手になり、地元が協力してくれました。

 アフガン国民は日本の首相の名前も、安保に関する論議も知りません。知っているのは、空爆などでアフガン国民を苦しめ続ける米国に、日本が追随していることだけです。だから、90年代までの圧倒的な親日の雰囲気はなくなりかけている。嫌われるところまではいってないかな。

 (自衛隊の駆けつけ警護や後方支援が認められることになったが)日本人が嫌われるところまで行っていない理由の一つは、自衛隊が「軍服姿」を見せていないことが大きい。米軍とともに兵士がアフガンに駐留した韓国への嫌悪感は強いですよ。

 それに、自衛隊にNGOの警護はできません。アフガンでは現地の作業員に『武器を持って集まれ』と号令すれば、すぐに1個中隊ができる。兵農未分離のアフガン社会では、全員が潜在的な準武装勢力です。アフガン人ですら敵と味方が分からないのに、外国の部隊がどうやって敵を見分けるのですか? 机上の空論です。

 軍隊に守られながら道路工事をしていたトルコやインドの会社は、狙撃されて殉職者を出しました。私たちも残念ながら日本人職員が1人、武装勢力に拉致され凶弾に倒れました。それでも、これまで通り、政治的野心を持たず、見返りを求めず、強大な軍事力に頼らない民生支援に徹する。これが最良の結果を生むと、30年の経験から断言します。

より大きな規模で国土の回復を願う

2019年6月4日
 福岡市・西南学院大学チャペルで6月1日開かれた活動報告会で

 中村さんたちは、用水路を東部クナール川下流域に建設し、農地に水を引く取水堰を次々に造った。江戸時代の工法などを参考に実地で改良を重ね、2月に完成した堰は、洪水に耐え、渇水時には水門付近の水位を堰板で調整して、必要な水を引くことができるという。現場で技術を習得した熟練工集団が育ち、よみがえった土地には農民が戻る。

 昔の人の知恵を発展させた。モデルとなる方式を確立した。自然といかに折り合っていくかを考え、モデル方式を普及させていきたい。

中村哲緑が茂る用水路の写真を示し、アフガンでの活動を語る中村哲さん=2019年6月1日、福岡市の西南学院大学

2019年10月10日
 アフガニスタンのガニ大統領から同国の名誉市民権を授与されてのコメント

 現地での活動を一緒に担う「ピース・ジャパン・メディカル・サービス」のジア・ウルラフマン医師とともに大統領官邸に招かれ、ガニ大統領から市民証を手渡されたという。

 わたし一人ではなく、長年にわたる日本側の支援、現地のアフガン人職員、地域の指導者による協力の成果だ。私たちの試みが多くの人々に希望を与え、少しでも悲劇を緩和し、より大きな規模で国土の回復が行われることを願う。