田中宏さんと考える(2)「国籍条項」とは何だ?
2019年12月18日
一橋大学名誉教授・田中宏さん(82)が差別の是正を求めて運動をしてきた在日韓国・朝鮮人には、あえて分ければ二つのタイプがある。
一つは、植民地支配下の朝鮮で「日本人」「日本兵」として戦った人たちが、日本人が戦後受けた手厚い補償を受けられない「不公平」の問題。
もう一つは、2世以下を含む在日コリアンとして定住・永住権を認められた人たちが、外国人登録に指紋の押捺を強いられたり「当然の法理」という理由で公務員になれなかったりしてきた制度的な差別問題だ。
例えば、シベリア抑留の被害者の問題。敗戦直後、旧ソ連は日本軍捕虜ら57万人をシベリアに抑留し、強制労働させた。日本では1988年に特別立法ができ、10万円の慰労金を被害者に支給した。しかし、「日本人に限る」として、一緒に戦争に駆り出された朝鮮人、台湾人を除外した。
田中「一橋大のゼミ生が、留学先の中国・延辺で朝鮮族の元抑留者に出会ったのです。私も1996年に延辺でお会いしました。その呉雄根さんという方は、やはり抑留された日本人の戦友から『あんたはもらえないようだから、俺がもらった半分を送る』と5万円を送ってくれたというのです。生死を共にした仲間だから、その日本人は自然な考えだったかもしれない。でも、よく考えると、朝鮮人がもらえないこと自体がおかしいと、なぜならなかったのか。日本人全体として、なぜそういう感覚がないのだろうということです。なぜ戦後になって、国籍で排除するのが当然になり、疑問すら持たなくなったのだろうということです。
シベリア抑留問題はその後も、民主党政権の2010年にシベリア特措法ができて、帰還時期に応じて25万~150万円が支給されたが、それにも国籍条項が残った。『どうして国籍条項をだれも問題にしなかったのか? おかしいじゃないか』と議員にただしたが、議員立法で与野党が合意しているから…で終わりでした」
田中さんは1988年に、神奈川県の石成基(ソク・ソンギ)さんという元軍属に出会う。石さんはマーシャル諸島で米軍との戦闘に巻き込まれて利き手の右腕を失った。同じ怪我を負った日本人なら、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が制定された1952年から試算した1994年までで累計6千万円超の戦傷病年金を受けていた。それが1円も支給されない。
石さんたちが戦後、声を上げずに黙っていたかといえば、そうではなかった。
大島渚監督が、同じ境遇の人たちの叫びを「忘れられた皇軍」という30分足らずのドキュメンタリー番組にして、1963年8月に日本テレビで放映されていた。田中さんが原点と考える、またもや1963年である(「千円札に気づかされたアジア人の葛藤」参照)。高度経済成長や東京オリンピック前の高揚とともに、いろいろなことがあったのだ。
石さんたちは日本が独立したサンフランシスコ平和条約を受けて、日本政府が彼らの日本国籍を一方的に剝奪したこと、その直後に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を公布し、その付則に「戸籍法の適用を受けない者については当分の間、この法律を適用しない」と、「当分」というあいまいな表現で日本人以外を支給から外したのだ。
「日本人よ、これでいいのか」と迫力ある小松方正のナレーションで告発する、この番組の主役となった在日韓国人傷痍軍人会の会長が、若きころの石さんだった。
田中「大島渚さんの歴史的な感覚は鋭かった。彼は世界的な監督で、海外の映画祭などで大島作品がよく上映される。その時に必ずといっていいほど『忘れられた皇軍』がプログラムに入っている。で、観た人から『その後、彼らはどうなったのか』とよく聞かれ、進展がないのですと答えるのが辛かったと言っていました」
石さんは改めて戦傷年金を申請し、却下されると処分取り消しを求めて1992年に行政訴訟を起こした。大島さんは東京地裁の傍聴席に足を運び、『忘れられた皇軍』は、法廷でも上映された。
田中「石さんの裁判が始まって世論が少し盛り上がってくると、大島さんは『海外の人に、ドキュメンタリーのその後の動きを話すことができるようになってうれしい』と話していました。石さんたちの問題は結局、裁判で敗訴した後、2000年に議員立法で『弔慰金等支給法』ができて、戦傷者に400万円、遺族に260万円の一時金が支給されることになりました。だが、日本人に比べると、スズメの涙ほどです」
田中さんにとって、元軍人・軍属の問題は、日本で生きるコリアンや日本人支援者の複雑な思いを突きつけられた問題でもあった。植民地支配し、戦争で多くの犠牲を出した日本は「悪」、韓国・朝鮮人は「善」という単純な構図を崩すものだったからだ。朝鮮人で戦争に参加する側に回った人たちは、民族的には「悪」とされ、一部の人たちが「忘れられた皇軍」のように直接、日本社会に訴えるしかなかった。
田中「市民が集まって在日の法的地位はどうあるべきか、政策提言や個別テーマについて検討していた時、『当の戦争犠牲者が我々の前に現れないのがとても不思議だ』と言ったんです。そうしたら、川崎の在日運動のリーダーだった牧師の李仁夏さんが『田中君、そこまで言うなら、1人よく知っているよ』と切り出したのが石さんだったのです。李仁夏さんは、日本軍の一員として出征した人を助ける気にはならない、と、それまで石さんの訴えを無視してきたというんです。その告白を聞いた時、大変なショックでした」
これも田中さんのその後の活動の「原点」となった。
田中「旧植民地出身者への補償法案を国会の法制局と相談しているとき、『何人ぐらいが受け取るだろうか』と聞かれたことがあった。予算があるからでしょう。僕は『多くても100人ぐらいかな、2ケタでしょうね』と答えた覚えがある。当時、いくら数えても、石さんのような裁判の原告とか、固有名詞がわかっている人は合わせても10人だったから。ところが例の『弔慰金等支給法』ができて、3年間の申請期間に414人が受け取ったんです。なんと、日陰というか、黙っていた人が多かったことか。仲間は助けてくれないし、日本人はこの問題を知らないし」
田中さんは、日本の敗戦間もなく、朝鮮半島が南北に分断したことも、在日コリアンの発信力と日本人の意識に影響を与えたのではないかと言う。
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