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大島渚「忘れられた皇軍」が告発した日本社会

田中宏さんと考える(2)「国籍条項」とは何だ?

市川速水 朝日新聞編集委員

大島渚監督の短編ドキュメンタリー

 石さんたちが戦後、声を上げずに黙っていたかといえば、そうではなかった。

 大島渚監督が、同じ境遇の人たちの叫びを「忘れられた皇軍」という30分足らずのドキュメンタリー番組にして、1963年8月に日本テレビで放映されていた。田中さんが原点と考える、またもや1963年である(「千円札に気づかされたアジア人の葛藤」参照)。高度経済成長や東京オリンピック前の高揚とともに、いろいろなことがあったのだ。

拡大「忘れられた皇軍」で日本の戦後補償のあり方に一石を投じた大島渚監督
 『忘れられた皇軍』は、在日韓国人の傷痍軍人会のメンバーが戦傷に対する補償を求め、「眼なし、手足なし、職なし、補償なし」というのぼりを掲げて首相官邸や外務省に行くが、どこからも無視され、街頭でも道行く日本人が無関心に素通りしていく様子を映像で告発した。

 石さんたちは日本が独立したサンフランシスコ平和条約を受けて、日本政府が彼らの日本国籍を一方的に剝奪したこと、その直後に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を公布し、その付則に「戸籍法の適用を受けない者については当分の間、この法律を適用しない」と、「当分」というあいまいな表現で日本人以外を支給から外したのだ。

 「日本人よ、これでいいのか」と迫力ある小松方正のナレーションで告発する、この番組の主役となった在日韓国人傷痍軍人会の会長が、若きころの石さんだった。

田中「大島渚さんの歴史的な感覚は鋭かった。彼は世界的な監督で、海外の映画祭などで大島作品がよく上映される。その時に必ずといっていいほど『忘れられた皇軍』がプログラムに入っている。で、観た人から『その後、彼らはどうなったのか』とよく聞かれ、進展がないのですと答えるのが辛かったと言っていました」

 石さんは改めて戦傷年金を申請し、却下されると処分取り消しを求めて1992年に行政訴訟を起こした。大島さんは東京地裁の傍聴席に足を運び、『忘れられた皇軍』は、法廷でも上映された。

田中「石さんの裁判が始まって世論が少し盛り上がってくると、大島さんは『海外の人に、ドキュメンタリーのその後の動きを話すことができるようになってうれしい』と話していました。石さんたちの問題は結局、裁判で敗訴した後、2000年に議員立法で『弔慰金等支給法』ができて、戦傷者に400万円、遺族に260万円の一時金が支給されることになりました。だが、日本人に比べると、スズメの涙ほどです」

拡大1994年7月、戦傷年金不支給の取り消しを求めた裁判で請求が棄却された後、記者会見を開く原告・石成基さん(中央左)。もう一人の原告・陳石一さんは判決の2カ月前に亡くなり、妻の堺正子さんが遺影を抱えて臨んだ=東京・霞が関

 田中さんにとって、元軍人・軍属の問題は、日本で生きるコリアンや日本人支援者の複雑な思いを突きつけられた問題でもあった。植民地支配し、戦争で多くの犠牲を出した日本は「悪」、韓国・朝鮮人は「善」という単純な構図を崩すものだったからだ。朝鮮人で戦争に参加する側に回った人たちは、民族的には「悪」とされ、一部の人たちが「忘れられた皇軍」のように直接、日本社会に訴えるしかなかった。

田中「市民が集まって在日の法的地位はどうあるべきか、政策提言や個別テーマについて検討していた時、『当の戦争犠牲者が我々の前に現れないのがとても不思議だ』と言ったんです。そうしたら、川崎の在日運動のリーダーだった牧師の李仁夏さんが『田中君、そこまで言うなら、1人よく知っているよ』と切り出したのが石さんだったのです。李仁夏さんは、日本軍の一員として出征した人を助ける気にはならない、と、それまで石さんの訴えを無視してきたというんです。その告白を聞いた時、大変なショックでした」

 これも田中さんのその後の活動の「原点」となった。

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筆者

市川速水

市川速水(いちかわ・はやみ) 朝日新聞編集委員

1960年生まれ。一橋大学法学部卒。東京社会部、香港返還(1997年)時の香港特派員。ソウル支局長時代は北朝鮮の核疑惑をめぐる6者協議を取材。中国総局長(北京)時代には習近平国家主席(当時副主席)と会見。2016年9月から現職。著書に「皇室報道」、対談集「朝日vs.産経 ソウル発」(いずれも朝日新聞社)など。

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