田中宏さんと考える(3)外国籍弁護士第1号や指紋押捺拒否にかかわって
2019年12月22日
「日立就職差別裁判」とは、日立製作所のソフトウェア工場従業員の採用試験に応募し、合格した在日朝鮮人2世の朴鍾碩(パク・チョンソク)さんが、日本式の通名の使用や本籍を偽装したとして採用を取り消され、1970年に裁判になった事件だ。
4年後の1974年に原告が全面勝訴した。横浜地裁判決は、在日朝鮮人が植民地支配を通じて様々な差別と抑圧を受けてきたこと、在日にとって通名の使用は日本社会が事実上、強制したものであることなどを認定。判決は1審で確定した。
田中「朴君は当時未成年だった。日本で生まれ育って、人権についても学んで社会に出たけれど、『学んできたことと違うじゃないか』と、それで裁判が始まることになる。当時、名古屋での「朴君を囲む会」という集会に行った時です。年配の在日の人が『裁判をしてまで日本の会社で働きたいのか、お前ら』と言ったんです。なんというか、日本人に小間使のように使われるのが嫌な思いなんだね。
日立訴訟は全面勝利し、慰謝料も満額認められ、未払い賃金も出て入社できた。その時、印象に残った支援運動側の発言は、『天下の日立製作所が裁判で負けたんだ。納得できないことがあれば異を唱えていくことが、我々に求められているのではないか』ということです。要するに、泣き寝入りを繰り返していては、何も解決できない、納得できないことにはきちんと物申すことが大事だ、という意識が芽生えたように思います」
この2年後、田中さんたちは「憲法の番人」に挑む。
1976年に韓国籍の金敬得(キム・キョンドク)さんが当初、司法修習生になれず、交渉を重ねた末に外国籍の弁護士第1号になった一件だ。
司法試験はだれでも受けられるが、法曹になるための修習生は日本籍が必要という矛盾した制度だった。
田中「早稲田からはたくさん在日の卒業生が出ているし、彼は先輩に聞いてまわったらしいのです。帰化するしかないだろう、という先輩もいたようだが、それでも彼は、韓国籍のままでないとダメだ、そうでないと朝鮮人の弁護を頼まれた時に後ろめたい気がするという強い思いを持っていました。しかし、相手は天下の最高裁。最高裁自身が修習生の国籍条項を作っているわけだから。そう簡単に勝てるわけがない。でも、その憲法の番人が、何の法的根拠もなしに国籍条項をつけているので、それにクレームをつけたわけです。弁護士に加わって、私も6回にわたって金君を支持する意見書を最高裁に出しました。
ところが、確か最後の意見書を出した日に、最高裁が司法修習生として認める決定をした。なぜ日本国籍を有しない者を採用したのか、説明はまったくなく、私たちの方が面食らったぐらいです。そうしたら、翌年からの欠格事由は『日本国籍を有しない者(最高裁判所が相当と認めた者を除く)』と括弧書きが加わったのです。意見書による批判にたじろいだのか、方針を変えてきたんですね。1977年3月のことです」
金敬得弁護士は東京・四谷に「ウリ(=私たち)法律事務所」を開き、在日コリアンの権利向上に力を注いだ。在日のための独自の国際民族学校の構想を夢見ながら、2005年12月、がんに倒れ56歳で逝く。
1980年代、今度は指紋押捺拒否の波が押し寄せた。16歳(当初14歳)以上の外国人に義務づけられていた登録証への指紋押捺の拒否者が続出。裁判では「みだりに指紋をとられない自由が外国人に制限されてもやむをえない」と判断されたが、運動の盛り上がりを受けて、1993年からは永住資格を持つ外国人について廃止され、1999年には押捺自体が廃止された。
田中「なぜ朝鮮人の指紋を採るのだと当局者に尋ねると、指紋は一生不変、万人不同だから、同一人性の確認に欠かせないという。では、日本人も選挙の投票の時などに同一人性の確認が必要なのに、なぜ日本人に指紋押捺が適用されないのかと聞くと、それは外国人でないからだと。およそ答えになっていない。ほとんど論理もない。ひとつひとつ潰していくと、合理的な説明ができないわけですよ」
指紋押捺問題と前後して、「在日コリアンは、なぜ公務員になれないのか」という疑問が浮上した。どの自治体も定住外国人を採用しない。その根っこをたどると、はるか昔、1953年に内閣法制局が出した次の見解だった。
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