メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

小沢一郎が閣内に入っていたら…

(27)国家戦略局を設定した松井孝治がみた小沢一郎・下

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

予算を国民の側に取り戻すことを忘れた民主党政権

 政治の問題領域は様々にあるが、それらの問題領域が集約的に現れてくるのが、国民の税金を集めてどういうところに使っていくかという政府予算の分野である。

 この予算使途をめぐる争奪戦が明治期以来の最も重要な政治課題となってきた。むしろ、古代政府ができて以来の人類史における枢要な政治テーマと言える。

 総選挙で自民党に大勝し政権交代を成し遂げた民主党政権は、この政府予算編成権について、国民を代表する「政治」の側が、政府と与党の一体化、一元化によってしっかりその手に掴み取ることを至上命題とした。

 その最重要拠点となるべく設置したのが国家戦略室であり、後に国家戦略局に格上げする予定だった。鳩山由起夫内閣は、その重要なポイントとなる担当大臣に、民主党のシンボル的存在だった菅直人を充てた。ところが、菅は衆望の期待を裏切り、予算編成権を政治の側に取り戻すことについて熱意を見せず、国家戦略局は歴史の彼方に消えていった。

 菅自身はその後、財務大臣から首相となり、さらに野田佳彦に首相職が引き継がれていく。その過程で、予算を国民の側が取り戻すという問題領域自体が忘れ去られ、民主党政権は自民党政権の亜流と堕していった。

 前回の『「政治主導」を唯一理解したのは小沢一郎だった』では、国家戦略局構想の青写真を描いた当時の民主党参議院議員、松井孝治(現慶応義塾大学教授)のインタビューを通じて、ここまでの証言を得た。

 前々回の『小沢一郎「このまま死ねない」そして山本太郎』では、民主党幹事長だった小沢一郎が、迫り来る2010年度予算案編成で「政治の大ナタ」を振るい、自民党の主要な集票構造を支えていた土地改良予算をバッサリ削った経緯を小沢自身に詳しく回顧してもらったが、前回に続く今回の松井のインタビューと合わせてみると、小沢自身が実質的な国家戦略局長の役割を果たしていたことが浮かび上がってきた。

 しかも、松井や小沢の回顧によれば実質的な司令塔・小沢には財務省主計局が極力協力していた。

 「財務省の官僚はいろいろなことを言ってもやはり賢明だから、きちんとした論理的なビジョンを持って説得すれば、きちっとした仕事をするんです」という小沢の言葉が思い出されるが、整合性のあるビジョンに基づいた政策の方向へ財務省をはじめとする官僚群を主導していくスタイルは、まさに今後再スタートしなければならない「政治改革」の教科書となるべきものだろう。

 前回に続いて、松井のインタビューを進める。

当選者の名前に花をつける民主党の鳩山代表(中央左)と小沢一郎代表代行(同右)。右端は菅直人代表代行=2009年8月30日、東京都港区の党開票センター

一番有効に機能したのは小沢幹事長室だった

 国家戦略局の設置、首相補佐官枠の増員、政治任用の拡大などを盛り込んだ政治主導確立法案は、2010年2月に鳩山由起夫内閣によって国会に提出されたが、衆院で継続審議となった。同年夏の参院選で自民党が勝ったことにより、2011年5月、菅内閣が撤回した。

――国家戦略室を国家戦略局に格上げする重要な政治主導確立法案は、最後は撤回という寂しい結果となりましたね。

松井 政治主導法案は、野党時代から松本剛明議員などごく少数の方々と内々議員立法の叩き台を用意していたのですが、私はこの手の法案は閣法で出すべきとの信念があり、内閣官房に特命チームを作成して臨時国会中に大車輪で起草作業を進めていくことにしました。

 最初の臨時国会で出せないかとも思いましたが、最終的には政府与党一元化に向けて副大臣や政務官、首相補佐官を増員する構想の具体的人数や、国会審議活性化法の経緯にもかんがみ閣法で出すか議員立法で出すかなどの調整に時間を要し、結果的には越年しました。当初から、法律の裏付けがなくても、デファクトで税財政の骨格を編成すべきではないかと思って政権発足直後に国家戦略室を作るんですが、まず菅さんが、そこを有効に使って予算編成の基本的な枠組みをやろうじゃないか、というふうにはなっていかないんですね。

 仕方ないので、行政刷新会議の事業仕分けの方で、予算編成に対して官邸主導である程度ものが言えないかという方向に、10月以降転換していくわけです。

 でも、それでは無駄を削るというある種のパフォーマンスとしてのショーはできるけど、予算編成の骨格を作るというところまではできません。シーリング方式を廃止して、本来は国家戦略局がそこを埋めて予算編成方針を作っていくということになるんですが、その国家戦略局がワークしていないものですから。行政刷新会議は世の中には訴えるんだけど、予算編成方針にはなりません。

 そんな中で、シーリング枠だけは外されたものですから、巨額の予算要求が各省から出てきて、歳出削減については、前原誠司さんが国土交通省の予算を削減する努力をしたほかは、厚労省にせよ、文科省にせよ、総務省にせよ、政治主導を主張して、官僚折衝で要求官庁と財務省が事務レベルで落としどころを探ることを認めない。藤井裕久先生は政権交代前には、政権さえとれば10兆単位の予算削減は可能とおっしゃっていたけれど、予想通り、そんな魔法のような歳出削減策はないどころか、歳入欠陥が大きすぎてどうにも予算編成に苦労しました。

 古川元久さん(内閣府副大臣)と相談し、例えば子ども手当の地方負担や事業者負担の在り方なども、私のところに総務省、厚労省の幹部官僚たちに来てもらって知恵出しを図るのだけれど、大臣を含めた政務三役のところに上げると妥協するなと怒鳴られるとか、困難を極めるわけです。

 最後に一番有効に機能したのは、皮肉なことなんですけど、小沢さんの陳情要請本部(民主党幹事長室)で、結局、陳情や要望を一括して受けるというその枠内で、どう収めていくかという形でサポートしてもらいました。

 だから、小沢幹事長が仕切る与党の陳情要請本部の方でどうプライオリティをつけるかというところが、内閣の予算方針を作っていく上で大きな助けとなりました。ぼくらから言うと、それは政府与党一元化と言えば言えるんですけど、当初思っていた政府主導の一元化とは違い、与党主導の一元化ということで決着していくわけです。

――2010年度の予算編成の形を最後の方までお話しいただいたんですが、少し前の方に戻ってお聞きしたいと思います。国家戦略局に来てもらう人材について、松井さん自身が主要官庁と話をつけて、将来次官級になるような枢要な人たちに来てもらうことになっていたということですね。

松井 当初、民主党の政権交代には求心力がありましたから、「ぜひ、この人が欲しい」というようなことを申し上げました。

――松井さんがおっしゃったんですか。

松井 はい。のちに財務省、経産省、総務省それぞれの次官になるような方々に目を付けて、当時、内閣官房副長官補室にそれら三省から3人のエース級の審議官に張り付いてもらいました。本来国家戦略局になる前提の国家戦略室に出向いただくということで各省の人事当局とお話ししていたんですが、国家戦略担当大臣が、そうしたエース級の人材を採ると官僚主導になるからという理由で、いつまでたっても首を縦に振られないので、年明けに、しびれを切らせて、とにかく補室に来てもらったんです。

 その方々については、結局、予算編成がらみの仕事はさしてなく、しかし、C型肝炎問題や温暖化対策立法の問題を筆頭に各省調整事務に関しては様々な調整困難案件があったので大活躍されることになります。

――菅直人さんと大蔵省(財務省)との関係では、私にも首を傾げた経験があるんですよ。1998年の財政機能と金融機能の分離問題の時に、仙谷(由人)さんに請われて不良債権問題に関して協力したんですね。その際に、民主党代表だった菅さんに何度か会って「財金分離を嚆矢に霞ヶ関改革、政権構想を打ち出せば政治主導のチャンスを握れるじゃないか」と説得したんですが、菅さんの答えは「大蔵省問題は10個ある問題のうちの一つに過ぎない」という素っ気ないものでしたね。

 もうひとつは、やはり二重権力の問題ですね。国家戦略局はやはり戦前の企画院のような屋上屋を作ってしまうのではないか、という問題意識が当時民主党の中にあって、そのリポートまで作られて菅さんや小沢さんの許にも行ったんですね。しかし、松井さんはそのあたりもお見通しで、結局「総理は一人では予算編成などはできない」ということですよね。例えば、経済財政諮問会議の例で言えば、小泉純一郎さんにとっての竹中平蔵さんのような形が必要だということですね。

 そのあたり、民主党内で意思の疎通がうまくいっていれば、また違った形になったかな、という気がしますが。

松井 意思の疎通というより、やっぱり、最後はそこにどれだけエネルギーを注ぎ込むかという思いが民主党の皆さんにあったかどうかということだと思います。

 鳩山さんも2009年の代表選挙の時に国家戦略局を取り上げたんです。鳩山さんはその後も、これは大事な法案だとおっしゃっていましたが、普天間問題とかでドタバタしている時に、本当に「これだけは仕上げなきゃ」という執念があったと言うと、なかったと思う。それは、ぼくらが鳩山さんにどれだけその重要性について説得的に話ができていたかということの反省点です。

――政治主導確立法案を閣法で出すか議員立法で出すかという問題ですが、小沢さんの考えでは「国会改革の一環だから議員立法が筋」ということでした。そのあたりはどうだったんでしょうか。

松井 その考えはわかるんです。ただ、議員立法にすると、できる限り、全会派の一致で物事を進めるというのが原則となり、与党・多数党だけでは話が前に進みません。だから、こういう戦略的な法案を議員立法で出すと成立が遅れるのは当たり前の話です。

松井孝治氏

「小沢さんには極めて明確な財務省の計算がバックについている」

 国家戦略局担当だった菅直人は結局、最後まで政治主導で予算編成権を握ることに積極姿勢を見せず、自身は財務相から首相に上り詰めるものの政治主導確立法案は反対に闇に葬られていく。その一方で、予算編成権を改めて政治の側に握り直していく画期的な努力が払われつつあった。小沢一郎を主とする民主党幹事長室だった。
 国家戦略局という、想定していた基礎地盤がない状況に放り出された官房副長官の松井と国家戦略室長の古川は、党の筆頭副幹事長の高嶋良充と細野豪志と4人で夜な夜な集まり、ガソリンの暫定税率の廃止や子ども手当の地方負担の問題などを財政的、制度的に詰めていった。党側の二人は小沢の決裁を仰ぎ、松井たちは鳩山に報告して、政府与党の予算に対する意思を反映していった。
 その時のことを印象深く語る松井の別のインタビューの言葉がある。
 「その際わかったのは、小沢さんには極めて明確な財務省の計算がバックについているということでした。というのは、小沢さんが言っていることを予算化して落としてみると、ほとんどコンマ一兆円という単位まで当時の財政フレームのなかにピシッと入るのです。確かに、予算編成の仕方が変わり、政府・与党が一元化し、幹事長の力を借りて予算編成を乗り切ったのですが、自分が目指した一元化とは明らかに異なるものでした」(山口二郎、中北浩爾『民主党政権とは何だったのか――キーパーソンたちの証言』岩波書店)

――松井さんは2010年度予算編成の際に苦労した時のことを思い出して「小沢さんには極めて明確な財務省の計算がバックについている」と回顧されていますが、実際にこの時のことを小沢さんにお聞きしましたら、その通りだったということでした。

 結局、組織の名称とかということを全部抜きにして考えると、実質的な国家戦略局長の役割を果たしていたのは小沢さんだったということになりますよね。

松井 そうですね。そうだったかもしれませんね。

――そこで、いろいろ先回りしてお聞きして申し訳ないんですけど、松井さんは月刊総合誌でも「そもそも党の幹事長は入閣するとマニフェストにも書かれていたのになぜ小沢さんは入閣しなかったのか。重量感のある小沢さんが、無任所大臣という形でも閣内にいて政府内で調整作業に当たっていたら、その後の政局も違った形になったのではないか」という趣旨の問題提起をされています

 非常に面白い問いかけだと思うんですね。名称はともかく、実際にそういう形にしていたらまさに理想的な国家戦略局長の仕事をされたと思います。そのあたりはいかがですか。

松井 そうだったかもしれません。結局、政治というものは、要は資源配分のプライオリティをどうつけるかという問題なんですね。例えばガソリンの暫定税率の問題にしても、民主党の支持基盤、例えばトラック協会を説得できて、なおかつ財政的に実現可能な対案を作ることができたのは、小沢幹事長やその配下の高嶋副幹事長の助けがあったからだと思います。

 あるいは、政治的判断で農業土木のところで何千億円もの財源を生み出す。これは当時、全国土地改良事業団体連合会の会長だった自民党の野中広務さんが直接陳情に行きたいとかということもありましたが、そういう敵の一番痛いところをビシッと突くことができる。これは小沢幹事長以外できません。

 4人で予算を詰めている時、例えば高嶋副幹事長から「こういう裁きでどうだろう。こういうものはこれくらいのことにして、これは残して、その代わり交付金はちゃんとつける」というような話が出てくるんですね。ぼくは財務省から来ている秘書官に対して、「これを実際にやってみたらどのくらいの予算の出入りになるか、ちょっと計算してみなさい。きっとピタッと合うよ」と言ったら、本当にピタリと合うわけです。

 全体のフレーム、赤字国債は44兆円の範囲でというような財政フレームが決まった段階で、どういうプライオリティのつけ方をしたらその範囲に収まるかということを小沢さんは財務省に計算させているでしょう。それは従来の予算編成とはだいぶ違ったものですが、応援団である各種団体も納得させられるもので、結局そういうものが出てきたのは、小沢幹事長室を中心とした予算調整プロセスの助けがあったからです。

 閣内でいろいろな閣僚がワーワー言っていてもそのような収束感は出てこないんです。当時、各大臣は「ここだけは絶対守る」とか言っていましたが、それじゃ収まらないところをどうやって収めていくか。政府と与党と相談していく中で、小沢、高嶋、細野の各氏と私と古川さんで話をして調整していくと政策ごとの財源規模が一定の枠内に収まっていくわけです。

 そうしたフレームの中で、子ども手当であれば、総務省の平嶋審議官を中心に、制度設計の知恵出しをお願いして、児童手当をベースにした二階建て方式のような知恵が出されてくる。よく聞いてみると、彼らは上司の大臣には上げずに(上げると反対されて潰されるから)、総務・厚労両省を中心に相談をして官邸に相談して、また官邸と幹事長部局が協議して「これだと何とか現実的な財源の範囲内に収められる」ということで、収束していく。しかもその予算の仕上がりは従来の予算とはずいぶん違った枝ぶりで収まっていくんです。

 そういう大きい枝ぶりをどう変えていって、しかも財政的なフレームにどう収束させていくか。予算編成はそういうことをしなければいけませんが、結局その時の各大臣の意向だけではできませんでした。党の陳情要請本部(党幹事長室)の意向を受けて、「こんなものでどうだろうか」と党と政府ですり合わせていく中で軟着陸できたんです。

 だから、軟着陸する時の司令塔役を小沢幹事長が果たしてくれたということは事実です。それがなかったらうまくいかなかった。

 2010年度予算案編成に関して、「司令塔役」、実質的な国家戦略局長を務めた小沢一郎は、どう考えているのか。私は、その件も小沢に質問してみた。小沢はその歴史的文脈を認めた上で次のように回顧した。
――松井さんの回想では、高嶋さんと細野さんが小沢さんの決裁を仰いで、その予算案は細かい数字にいたるまでうまく収まっていったということです。松井さんの推測では、小沢さんは財務省と話をつけていて、その財務省の緻密な計算がバックにあったんだろう、ということです。そのあたりはどうだったのでしょうか。
小沢 ええ、そうですね。あの時は勝(栄二郎)さんが主計局長でした。ぼくは予算編成とか大きい枠組みをどうするかということはよく知っていますから、ポイントだけ勝さんに言っておけばよかったんです。これはこう、というように言っておきました。ぼくは、財務省には親しい人がいっぱいいますから。
――なるほど。そういうことだったんですね。そうすると、勝さんに対してポイント、ポイントについて、こうしなさいと言ったわけですね。
小沢 こうしなさい、ではなく、こうこう、こういうことでいいでしょう、と。ぼくは無茶なことは言いませんから。きちんと筋道の通ったことしか言いません。
――なるほど。
小沢 それで、わかりました、となるわけです。

小沢一郎氏

小沢さんの力が強すぎて、やっかみがあった

――そうですね。だから、本当に小沢さんが閣内に入っていたら、その後の展開は非常に違った形になっただろうと思うんですね。

・・・ログインして読む
(残り:約1839文字/本文:約9061文字)