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101歳で逝った中曽根元総理。手作り外交の功罪

「ロン・ヤス」で対米関係改善、西側陣営として積極行動する一方、歴史認識問題も招来

加藤博章 関西学院大学国際学部兼任講師

中曽根康弘氏の遺影に手を合わせる人たち=2019年11月30日、群馬県高崎市末広町の青雲塾

 さる2019(令和元)年11 月29日、中曽根康弘元総理が101歳で亡くなった。謹んで、哀悼の意を表したい。

 中曽根元総理の実績については、これまでにも様々な方が論じているが、そのなかでしばしば言及されるのが、中曽根政権下における外交である。

 中曽根政権(1982~87年)は国際情勢が激しく変動、日米安全保障関係も転換していくなかで成立した。後で詳しく述べるが、米ソの「新冷戦」と中東の不安定化という状況下で、日本はアメリカから、経済大国に相応しい役割分担を求められるようになった。

 そんななか、総理になった中曽根は西側同盟の一員としての立場を鮮明にした。日米安全保障関係や防衛力を強化することで、日米関係を強化するとともに(アメリカとの緊密な関係は「ロン・ヤス」関係とも呼ばれる)、韓国や中国との外交やサミットでの首脳外交によって、アメリカを中心とする西側陣営を側面から支えていった。

 中曽根元総理の評価として、このような外交の側面を指摘する意見は少なくない。それでは、そもそも中曽根外交とは何だったのだろうか。本稿では、中曽根政権の外交の功罪をあらためて考えたい。

補聴器を使わなかった中曽根元首相

 私事で恐縮だが、中曽根元総理に一度だけインタビューさせていただいたことがある。博士論文で1987(昭和62)年のペルシャ湾安全航行問題を扱っていた私は、産経新聞の方の仲立ちで、2011(平成23)年にインタビューの機会を得た。

 90歳を超えていた中曽根元総理は、インタビューの最初こそ脇に補聴器を置き、年相応の印象を受けたが、インタビューが進むにつれ、明瞭、かつはっきりとした口調で当時のことを語っていた。結局、補聴器を使うことはなかった。

 中曽根氏は存命の間、様々なインタビューに答え、回想録も多く出版されている。おそらく、ここまで回想録を多く出版している政治家は、珍しいと言えよう。逆にそれが、中曽根氏に対する評価を難しくしている面もある。今後、中曽根政権や中曽根氏自身に対する再評価が始まることだろう。

新冷戦と地域紛争の時代に

 中曽根外交とは、一般的に中曽根康弘が総理として官邸主導で行った外交を指す。上述したとおり、この間、中曽根総理は西側の一員として、同盟国アメリカを支える外交を行ってきたわけだが、ここでは背景となった国内外の情勢について、みておきたい。

 1979(昭和54)年、ソ連のアフガニスタン侵攻をきっかけに米ソの緊張が高まっていた。いわゆる、「新冷戦」である。また、同年にイランでイスラム革命が起こり、親米だったパーレビ王朝が倒され、イラン・イスラム共和国が誕生する。そして、この年からイランはイラクとの間で戦争状態に突入している。

 中曽根氏が政権の座に就いた1982年当時、日米関係は冷え切っていた。前任者の鈴木善幸総理は、アメリカから防衛力と役割分担の強化を迫られていた。1981年(昭和56)年5月のレーガン米大統領との会談後の共同声明に、初めて「同盟関係」という言葉が記されたが、その解釈を巡って混乱が生じ、伊東正義外務大臣と高島益郎外務次官が辞任する騒ぎとなった。

 元々、鈴木は“ハト派”であり、日米安保や日本の防衛力強化に後ろ向きで、アメリカの要望する防衛費増額や武器技術供与に対応しなかった。それもあって、鈴木政権の末期になると日米関係は極めて悪化していた。

急務だった対米関係の修復

日米首脳会談のため来日。日の出山荘を訪れたレーガン大統領(左)にホラ貝を吹いてみせる中曽根康弘氏=1983年11月11日、総理官邸写真室撮影

 日米関係が冷え切った中で政権の座に就いた中曽根は、まず対米関係の修復する必要があった。加えて、鈴木政権末期に借款問題から対立を深めた韓国との関係も改善しなくてはなからなかった。

 中曽根は就任直後、アメリカが要望していた防衛費増額と対米武器技術供与を実現した。また、アメリカより前に韓国を訪問し、日韓関係の修復を図った。満を持した中曽根は1983(昭和58)年1月、防衛費増額と対米武器技術供与を手土産に訪米した。

 ときの米大統領、ロナルド・レーガンと中曽根は、「ロン・ヤス」関係と称されるような親密な関係を築くが、政権発足当初は、このような関係だった訳ではない。アメリカのレーガン大統領図書館に残っている史料によると、当時は中曽根の人物像について、「ナショナリストの一人」としているものの、詳しい人物像は捉えきれていないことが記されている。レーガン政権にとって、中曽根は未知の人物であったようだ。

 訪米した中曽根は、日本に対する米国の信頼を取り戻すべく、安全保障に対して活発な発言を行った。「日米は運命共同体である」「日本列島を不沈空母のようにし、強力に防衛する」などと発言、日米の連帯を説いた。訪米前の日米安保を重視する姿勢、そして訪米中のこうした発言により、レーガン大統領の信頼を得た中曽根。それが、「ロン・ヤス」関係へとつながっていくのである。

 その後も中曽根は西側同盟の一員としての日本を積極的に打ち出していく。1983(昭和58)年5月に開かれた「ウィリアムズバーグサミット」では、パーシングII準中距離ミサイルの配備が問題となっていた。アメリカは、ソ連の中距離核ミサイル(SS-20)に対抗し、ヨーロッパでパーシングⅡの配備を進めようとしていた。サミットでは、アメリカやイギリスがこれに賛成し、フランス、西ドイツ、カナダなどは反対していた。

 こうしたなか、中曽根は配備に賛成し、西側の一員として同盟を支えるという姿勢をとった。その結果、サミットの共同声明では、INF(中距離核戦力)削減交渉が妥結しない場合、西ヨーロッパにパーシングⅡを配備するという文言が盛り込まれるに至った。

東京サミットで個別晩餐会に出席した、左からコール西独首相、サッチャー英首相、ミッテラン仏大統領、マルルー二加首相、中曽根康弘首相、レーガン米大統領、ドロールEC委員長、ルべルスEC議長、クラクシ伊首相=1986年5月4日、首相官邸

歴史認識問題の端緒を開く

 中曽根は西側同盟の一員として、中国、韓国との関係も改善したが、他方で歴史認識問題の端緒を開いてもいる。

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