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戦中に強制連行され、戦後に「雪男」にされた劉氏

田中宏さんと考える(4)中国人強制連行「和解」の苦しみ

市川速水 朝日新聞編集委員

花岡事件、動かぬ「証拠」で和解へ

拡大中国人強制連行の犠牲者数に合わせ、6830足の黒い布靴が並んだ追悼式の会場=2019年11月19日、東京・芝公園、筆者撮影
 それが「花岡事件」。あらましはこうだった。

 山東、河北、河南省などから秋田県の鹿島組(現・鹿島)花岡事業場に986人が連行された。過酷な労働と虐待のなか、終戦間近の1945年6月、中国人労働者が一斉に蜂起し、鹿島側の補導員(監督)4人を殺害した。地元警察や警防団に全員逮捕され、拷問などで合わせて419人が死亡した。

 中国人は秋田地裁で有罪判決を受けたが、秋田に進駐した米軍が事件を知り、中国人は「俘虜」だったとして12人を釈放。逆に鹿島・地元警察は俘虜虐待容疑でBC級戦犯横浜法廷にかけられ、1948年3月、有罪判決を受けた。

 中国人の強制連行・強制労働に責任を負う企業に謝罪と補償を求める行動は、花岡事件が初めてだった。

田中「日中間には、日韓請求権協定のような協定はなく、完全かつ最終的に解決、などと書かれたものはない。国会で田英夫参院議員が海部俊樹首相に質問した時に、首相が『日中共同声明で片付いた』という趣旨の答弁をしたことぐらいでした」

 1972年、日中国交正常化が実現した時の日中共同声明では「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と記された。

 海部首相は1990年3月、花岡事件について知っているかどうかという田議員の質問に、「はなはだ遺憾なことだと思い、心を痛めた」とする一方で、「我が国政府としては、戦争にかかる日中間の問題は日中共同声明発出の後、存在していない。請求権の問題についてはそういう立場」と民間の賠償責任問題については言葉を濁していた。

田中「(被害者らでつくる)花岡受難者聯誼会が、鹿島にあてて『公開書簡』を出したのが1989年末です。公式の謝罪、日中に記念館を設置すること、各50万円を補償することを求めました。鹿島の責任をめぐっては、BC級戦犯裁判で有罪判決が出ていることは逃げようがない事実。鹿島側や現地警察の3人には死刑判決が出た。その後減刑されて死刑執行はなかったが、事実が認定されている。翌1990年7月、東京での鹿島との『共同発表』で、会社は『深甚な謝罪の意を表明し、解決に向け協議する』としました。しかし、協議が不調に終わり、1995年6月に原告11人が東京地裁に提訴するわけです」

 日本の外務省管理局は1946年、「華人労務者就労事情調査報告書」を作成していたが、長く所在不明とされていた。1993年に「発見」され、翌94年の国会で、政府の作成であることを認めた。

 その外務省報告書には、4万人近い中国人が連行されたこと、35企業、135事業場に投入され、全体の17.5%に及ぶ6830人が死亡したことなどが記録されていた。死亡率はシベリアに抑留された日本人をはるかに上回っていた。

田中「中国は戦勝国だから、本来ならアメリカと肩を並べて占領軍の一員として日本に駐留してもおかしくなかった。日本もちゃんと調査をしておかないと、ということで外務省報告書ができたわけでしょう。この点は、植民地だった朝鮮半島からの強制連行との大きな違いです。同じ国家総動員体制の下で、最初は朝鮮人を連れてきて、次は中国人を、となったのです。『華人労務者移入』を閣議決定して中国人を連行したわけです」

 花岡事件は結局、1審敗訴の後、東京高裁で裁判長から和解案を提示される。

田中「裁判所の和解提案に応じるかどうか。中国人原告にとっては、原告11人だけではなく、働かされた986人全体の解決ができるかどうかが核心だった。日本にはクラスアクション(集団訴訟)制度がないため、信頼に足る信託機関に受諾してもらわねばならない。戦後の日本人の引き揚げや中国人の遺骨送還の中国側窓口だった中国紅十字会が引き受けてくれたので、それが実現することになりました」

 それを受けて、2000年4月、新村正人裁判長は、さきの『共同発表』を踏まえ、和解金5億円を提示した。被害者全体では1人当たり50万円の計算になる。

田中「請求額は1人500万円だったから、10分の1です。しかし、回答はイエスかノーしかない。50万円では…と思いつつ、ともかく北京に原告を訪ねました。説明のうえ議論しましたが、最終的には、全く前例がないことだったし、原告たちは『お金を取るのが目的ではない。初めて全体解決の和解が生まれるのだから』と、11人が『同意書』を作り、サインしてくれました」

 2000年11月、和解が成立した。田中さんが新美弁護士に聞いたところによると、鹿島内部は和解賛成と反対で割れていたという。「カミソリ後藤田」といわれた自民党の後藤田正晴・元官房長官も秘密裏に間に入ったという。後藤田氏は、戦時中を台湾の歩兵や陸軍主計少尉として過ごした。終戦も台北で迎え、捕虜生活も送った。

田中「原告側は受け入れたのに、なぜ和解にならないのか、中国紅十字会も受け皿になったのに…と、実は中国サイドに不満が高まっていたのです。そのことを、従来力を貸してくれていた土井たか子さん(当時社会民主党党首)に話したら、後藤田さんに連絡してくれて、私が麴町の事務所に説明に行きました。呑み込みが早い人で、『分かった、石川六郎さん(元鹿島会長)に電話してみる』といわれました。しばらくして鹿島の和解受諾が伝えられたのです。3人とも故人になられましたが…。
 和解した後も、いろいろな問題が起きました。和解という言葉は、中国側から見ると妥協したように見える。中国語との微妙なニュアンスの違いがあるのでしょう。徹底的に闘わなければいけないのに、仲直りしたのかというイメージを与える。日本の新聞の社説に『救済』という単語が何回出てきたか数えて、批判の材料にされたこともありました。
 また、『和解条項』では、会社が謝罪した『共同発表』を再確認しているのですが、条項自体には謝罪の文字が入っていなかったこともマイナスに働いたようです。さらに、和解当日、鹿島側は記者会見にも出ず、マスコミ各社にファクス1枚を送っただけだった。その文面には、拠出した金員は賠償でも補償でもないなどとあった。中国では、それは『施し』なのだと反発を呼んだ面もあるようです。
 何もかもが最初のケースだったから、ある意味では仕方がないと思いました。花岡事件を下敷きにして少しずつ改善していく、救済の質を高めていければと…」

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筆者

市川速水

市川速水(いちかわ・はやみ) 朝日新聞編集委員

1960年生まれ。一橋大学法学部卒。東京社会部、香港返還(1997年)時の香港特派員。ソウル支局長時代は北朝鮮の核疑惑をめぐる6者協議を取材。中国総局長(北京)時代には習近平国家主席(当時副主席)と会見。2016年9月から現職。著書に「皇室報道」、対談集「朝日vs.産経 ソウル発」(いずれも朝日新聞社)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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