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「改革の政治」が産み落とした鬼子としての維新

平成政治を問い直す【6】「政治主導」から独裁の肯定へ

大井赤亥 広島工業大学非常勤講師(政治学)

橋下徹の登場

 2009年に民主党への政権交代が起こると、強いリーダーシップによって行政機構の縮小再編成を断行する「改革保守」の趨勢は、いびつな形で関西へ移る。それが橋下徹による大阪維新であり、橋下旋風はいわば「改革の政治」の第四波であった。

 2008年の大阪府知事選では、現職太田房江の不出馬を受け、自民党は当時38歳、テレビ番組『行列ができる法律相談所』で「茶髪とジーンズの弁護士」として知名度があった橋下徹に出馬を依頼し、橋下は自民党推薦で当選を果たす。

 以降、橋下は2008年から11年まで大阪府知事、11年から15年まで大阪市長を歴任し、一連の橋下政治が開始された。

初めての大阪府知事選に臨んだ橋下徹氏=2008年1月20日、大阪市中央区

 出馬会見では「子どもが笑う大阪」をスローガンにした橋下であったが、その府政の基本思想は自治体経営と企業経営とを同一視する「政治への経営感覚の導入」であった。

 上山信一によれば、「企業であれ行政であれ、改革の第一歩は無駄な出費を止めること」であり、行政改革の場合には「人件費の見直し」が不可欠だという。そして橋下は「経営の原点はコスト削減」という鉄則を理解しており、上山は「この人は若いけれど、稀に見る一流の経営者だ」(注1)と感じたという。

 果たして、府知事就任初日、橋下は職員を前に「皆さんは破産会社の従業員でボーナスゼロはあたりまえ」と宣言し、職員の人件費削減や府有施設の売却に乗りだしていく。

 横須賀を地盤とする小泉純一郎、神奈川県の都市部自治体を基盤とした中田宏や松沢成文らが都会的でスマートな「改革保守」であったのに対し、大阪で登場した橋下徹はラディカルでやくざ風の「改革保守」であったといえよう。二宮厚美の言葉を借りれば、「現代日本の新自由主義の妖怪は、この荒々しいばかりのハングリー精神と競争心に満ちたバーバリアン的体質に着眼して、橋下に呪いついた」(注2)のであった。

(注1)上山信一『大阪維新』角川SSC新書、2010年、132-133頁。
(注2)二宮厚美『新自由主義からの脱出』新日本出版社、2012年、317頁。

社会運動としての大阪維新

 橋下政治の特徴は、路上の民衆の不満や怒りを吸いとり、メディアを駆使して世論を焚きつけ、敵対勢力との論争を沸騰させ、有権者の政治的関心の高揚を自らの加点要素とするダイナミックな運動的要素である。

 橋下は2010年4月に大阪維新の会を結成。維新の会は、大阪都構想という大義とともに「大阪の都市のあり方を大きく変えていく社会運動」(上山信一)を自力創出するものであった。

 維新の運動的性格は、2011年の府市ダブル選挙に如実に現れている。橋下は大阪都構想をめぐって平松市長と対立すると、2011年11月、平松を追い落とすために自らが大阪市長選に出馬、府知事選には懐刀の松井一郎をあてるという前代未聞のダブル選挙を仕掛ける。

 ダブル選挙での維新は、大阪都構想、教育基本条例、職員基本条例の三点セットを掲げ、有権者からの全権委任を要求する。

 これに対して、既成政党は自民党大阪府連から共産党まで立場の違いを超えて反橋下の布陣を形成。この反橋下包囲網の構築は、あまりに急激かつ野蛮に統治制度再編を強行する橋下型の「改革保守」に対して、大阪地場の「守旧保守」と左派とが一時的に連携したものといえる。

 しかし、維新はむしろそのような対決を養分とするように、市長には橋下、府知事には松井が大差で当選し、大阪府市のいずれをも維新が獲得することになった。

「政治主導」から「独裁」の肯定へ

 「改革保守」の特徴は強いリーダーシップによって行政機構の縮小再編成を行うものであり、大阪維新もまたそのパターンを踏襲している。

 大阪維新はその政治手法として「決定できる民主主義」を標榜し、独自の手法で「政治主導」を実践していった。橋下の政治手法は敵と味方を明確に区別する「ケンカ民主主義」であり、ここにおいて「政治主導」は、乱暴な言葉で論争を盛りあげては選挙で白黒決着をつけようとする「選挙至上主義」へと展開されていった。

大阪市長選、府知事選のダブル選に勝利して橋下氏から知事の引き継ぎを受ける松井一郎氏=2011年11月29日

 ダブル選勝利を受け、維新は松井を本部長、橋下を副本部長として府市統合本部を設置。府市統合本部は大阪行政の司令塔として、府市の類似事業の仕分け、広域行政の一元化、港湾や水道などの一体運用を進めていく。このような決定系統の一元化は、維新による迅速かつトップダウン型の政治手法を可能にした。

 橋下による「政治主導」は、時に「時限的な独裁の肯定」にまで行きつくものでもあった。2011年6月、橋下は「今の日本政治で一番必要なのは独裁」と発言して物議を醸す。政治的リーダーシップの強化を追求してきた「政治主導」の掛け声は、橋下政治に至って「独裁」の肯定に帰結することになったのである。

 その後も維新は、「あほでバカ」「ウソつき」などの過激な民進党批判で1年に4度も懲罰動議を出された足立康史や酒に酔って戦争を肯定した丸山穂高など、多くの問題議員を輩出してきた。元来、1990年代に「政治改革」の旗振り役をした政治エリートたちは、自らが進める制度変革が橋下徹のような粗暴な政治家を生み出すとは想像していなかっただろう。その意味で橋下政治は、「改革の政治」が意図せずして生みだした鬼子であった。

市役所改革の断行

 「時限的独裁」によって橋下が行なった「改革」は、第一に市役所改革であった。

 大阪市役所ではかねて市長、議会、職員労働組合の間のなれあいが形成され、それらは市役所の所在地をもって「中之島一家」といわれてきた。

 2000年代以降、組織的なカラ残業、異常な退職手当やヤミ年金、職員に対する家電製品やスポーツ観戦券の支給、職員の子どもの入学や結婚に際した祝い金制度など、市民には納得しがたい大阪市役所の職員厚遇が明らかになり、「職員の職員による職員のための市役所」の実情が暴露されていったのである。

 橋下による市役所改革の柱は第一に職員規律の強化であり、「公務員の身分保障が甘えを生む」という発想の下、「民間のような厳しい競争原理」の導入が図られた。その際に橋下が敵役と見立てたのが職員労働組合であった。

 橋下は労組との激しい対立の末、2012年5月、職員評価に相対評価を導入し、2年連続で最低ランクの評価を受けた職員には解雇もありうるとした職員基本条例を制定させる。

 市役所改革の第二の柱は市政への民間活力の導入であり、橋下は行政職への民間人登用を推進した。民間人登用の対象となったのは区長や市立小中学校長であり、橋下は企業経営者やコンサルタント、首長経験者などを「僕の身代わり」として公職に登用していくことになる。こうして民間から採用された区長や校長は、その後、重要会議の欠席、ツイッターでの攻撃的発信、セクハラやパワハラなどを頻発させて更迭や退職が相次ぎ、人材の質が問われた。

 しかしながら、橋下による役人の「既得権」剥奪は、市民や府民の支持を確実に獲得するものであった。有馬晋作によれば、「職員労働組合との対立姿勢を伴ったスピード感ある市政の改革は、日頃から行政の非効率や官僚組織などに不満を持つ市民にとっては、新鮮で強いリーダーシップを発揮しているようにみえ支持率も高くなった」(注3)。労働組合は大阪市の税金を食い物にする「既得権」の牙城とされたのである。

 消費者金融の営業マンを主人公にして大阪の市井の人間模様を描いた漫画として、青木雄二の『ナニワ金融道』(講談社)がある。この漫画で一番

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