日韓関係から言語コミュニケーションと政治外交を考える
2020年01月04日
*この記事は筆者が日本語と韓国語の2カ国語で執筆しました。韓国語版(한국어판)でもご覧ください。
筆者は言語学者ではない。ただ、日常的に日韓の二重言語で生活している立場から、言語コミュニケーションの問題には特別な関心がある。
もう数十年も前のこと、大学で他学部開講の言語学関連の授業を聴講したときの忘れられない記憶がある(もっとも、それは妻が所属していた学部のクラスであって、聴講には別の目的があったのだが…)。著名な言語学者である教授の講義だった。
「ネイティブ・アメリカン」(Native Americans、俗称アメリカ・インディアン)の一部の部族の言語には、否定文すなわち「いいえ」という表現がないとのこと。では、その言語で否定の意味を表現したいときにはどうするか、考えてみなさいという問いかけがあった。
答えに窮している私たちに、その老言語学者はこう教えてくれた。
「私は決してイケメンではない」は「私がハンサムだったらどんなにいいだろうか」と言い、「私はあなたを愛していない」は「私があなたを愛することができればほんとうにいいのだが」と言うのです。
つまり、否定の表現は仮定法(反実仮想)を利用してその意味を伝えるというのだ。
もちろん、筆者自身はそのような言語を直接調べたことはないのだが、その言語学の講義で聴いた特異な言語のことは今でもはっきりと覚えている。
推測するに、否定表現のない言語を使用するその部族は、それなりにたいへん品格のある人間関係のコミュニケーションを重視する文化を持った人々ではなかったかと思う。
そもそも否定語が存在する言語圏でも、なるべく否定表現を使用せずに相手に意思を伝えることができるなら、その方が望ましいと考える読者も多いはずだ。
筆者が留学のため日本にやってきたときのこと、同じ大学の留学生で、滞在歴では先輩であるひとりの友人が、日本での生活経験のエピソードを楽しく聞かせてくれた。彼は同じクラスの女子学生に心惹かれ、デートを申し込んだ。
「今日、可能なら、私と一緒に食事して、映画を一本みるのはどうですか?」
たどたどしいが、まさに典型的なデート・プロポーズである。
戻ってきた答えは、「今日はちょっと…」。
友人は非常に満足して、うれしかったという。彼は自分のプロポーズが通じたと考えたのだ。自分のプロポーズはOKだが、彼女は今日は都合がわるいという意味だと解したのである。
それで友人は、その次の日にも、また数日後にも同じように声をかけたが、戻ってきた答えはやはり「今日もちょっと…」とか、「実はちょっと…」というものだったそうだ。
さすがの友人も、ようやくそれが「いいえ」という意味、デートの拒否であることに気付いたという。つまり、自分のデート・プロポーズを婉曲に拒絶する意思表示が、いわゆる「省略法」をもって何度も表現されていたことを理解したという話であった。
上記のエピソードは、否定の意味を伝えるやり方には、さきに書いたネイティブ・アメリカンのような仮定法もあるが、日本語に頻繁にみられる省略的表現によっても可能であることを教えてくれる。
その話を聞かせてくれた友人は、韓国語を話す若者同士だったら、すぐに「イエス」(Yes)か「ノー」(No)かを直接的に表現していただろうとこぼしたが、筆者もその通りだと思う。
デートを申しこむ相手に対して、即座にそして明確に諾否の意思を答える確率が韓国語圏でははるかに高い。現在では日本語圏の文化的な雰囲気も変わってきているのかもしれないが、筆者が最初に留学した三十年前の日本では、特に女性の言語表現は婉曲的で間接的になされる傾向が強かったように思う。そのひとつの例がくだんの省略法による意思表示だったというわけだ。
しかし、韓国語も昔の時代には、特にエリート層の言語に直接的表現はすくなかった。直接的な表現は、はしたなく低級だと思われていた。レベルの高い会話というものは徹底的に比喩を用いたり、滑稽や風刺をまじえてなされたりすべきもので、ときにそれは歌の形式を借りたりもした。
次に引用するのは、高麗王朝がつぶれて、新王朝の朝鮮が立てられる時期、高麗王朝に忠誠を尽くす重臣鄭夢周(チョン・モンジュ、1337-1392)を、朝鮮建国の主導者の一人で、後に三代目の王となる李芳遠(イ・バンウォン、1367-1422)が説得する「時調」(歌をともなう短定型詩)である。
こんなになってもいいじゃないか/あんなになっても大丈夫じゃないか/萬壽山(高麗の都の開城近郊の山)の葛が/からんでもつれている/私たちもこのように心通わせ/百年の仲を保ちたいのだ(筆者訳「何如歌」、出典『靑丘永言』)
これに対して、鄭夢周は自分のまっすぐな志操を次のような「時調」で示した。
この身が死んで死んで/百度も死んで死んで/白骨が塵土になって/魂があってもなくても/主君に捧げる一片の赤心は/変わらないだろう(筆者訳「丹心歌」、同上)
このダイアログには「イエス」も「ノー」もない。しかしここには、なによりも渾身の勧告と命をかけての拒否が表現されている。結局、鄭夢周は李芳遠の手で命を失う。
同じ時代には、また別のエピソードが伝えられている。朝鮮王朝最初の王、太祖李成桂(イ・ソンゲ、1335-1408)と彼の策士で仏教僧侶の無学(ムハク、1327-1405)との有名な逸話である。両者は、日本の歴史にみる豊臣秀吉(1536-1598)とその顧問で臨済僧の西笑承兌(さいしょうじょうたい、1548-1608)のような関係にあった。
太祖李成桂が朝鮮の都を漢陽(現在のソウル)に移して、景福宮で祝賀会を催した。酔いも絶頂に達しようとする頃、談笑を交わしていた太祖が横にいる師の無学に突然ひとつの提案をした。「大師!今日だけは無礼講で、互いにこころおきなく、誰が冗談をよくするか賭けてみましょう」。あっけにとられた無学が思わず答えた。「王の仰せとあればぜひもありません」。するといきなり太祖が冗談を言った。「今、大師の顔をつくづくと見るとイノシシのようだ」。王の言葉は波紋のように酒席に笑いとなって広がった。すると、無学が丁寧に口を開いた。「小生の目には王様は仏にそっくりでございます」。意外な答えに太祖が笑いを収め真顔で尋ねた。「無礼講と言ったではないか。冗談を言いあうことにしたのになにを言うのか。自分は大師をイノシシに見立てた。なのに、どうして私は仏なのか。今宵はどんな悪口も許されるのですぞ」。無学はひとしきり高笑いをした後、こう言った。「凡そ仏の目で見ると、すべてのものが仏のように見えますが、豚の目で見ればすべてが豚のように見えることでございます」。(筆者訳、出典「釋王寺記」)
慇懃にして次元の高い比喩をもって、無学の言語表現は太祖の攻撃を見事に打ち返した。この逸話は朝鮮両班のユーモアと諧謔、風刺センスの伝統をいうときによく引例される。
言語によって悪口の頻度、種類、傾向などは異なる。あくまでも主観的な意見であるが、韓国語にはいわゆる罵倒語やそれに関連する言語表現が、他の言語に比べて多いように思う。言語学者によっては、この悪口表現の豊富さがその言語の歴史と文化の多様性を意味すると主張するむきもある。一理あるかもしれないが、全面的に首肯することもむずかしい。
悪口はできるだけ避けたほうがよい。特定の相手に向けて吐き出される悪口は、人間関係の破壊行為であり、暴力に該当する。にもかかわらず現代社会は、悪口の日常化が進む傾向にある。悪口は単に言語表現に限定されず、表情やジェスチャー、節度を欠いた振る舞いや態度にもあらわれる。
また、それが差別的な先入観やイデオロギーにもとづいて一方的に表現されるときには、さらに深刻である。その代表例としては人種差別、出身地域差別、民族的感情や思想を背景とする敵対的な言語表現や行為などがあるが、それらはときとして直接的な暴力以上に甚大なサディスティックな結果を生みだしてしまう。
南北分断状況の韓国社会で頻繁に使用されている「赤」という表現、すなわち左翼勢力やいわゆるイデオロギー的進歩陣営に対する俗称は、直接的な悪口ではないが、韓国内部をふたつの陣営に分断し、相互の攻撃性を惹起する暴力的言語であるということができる。
また、現代の通信分野を支配するサイバースペースにおける、たとえばSNS上の悪口といった言語暴力の実態は深刻な水準に達している。顔と顔が直接向き合うことをしない仮想空間において、話者が直接露出していない状態で強行される数多くの悪口はきわめて悪質であり、被害者にとってそれはまさに人格的殺人にほかならない。
最近、韓国では連続的に「アイドル」出身の有名芸能人が、いわゆる「悪質な書き込み」に苦しんで自殺する事件が起きた。人気アイドルのソルリや、日本でも広く知られたグループ「カラ」の元メンバーのク・ハラらである。
これらの言語にまつわる今日的現象は、単に人間関係におけるコミュニケーションの問題を超えて、それが直接的な暴力になり得るという事実を示している。
悪口や誹謗中傷の問題は、韓国や日本に限った地域の問題ではなく、現代世界全体のコミュニケーションに関わる最大の課題となっていることは明らかである。
韓国や日本の政治の現場では、そこに飛び交う言語対立と葛藤、その表現の意味解釈にまつわる議論が絶えない。しかもそれが自国内部の政治を越えて、外交に関連するとあれば、その議論は否応なく鋭敏な対立を生むこととなる。
日韓間の懸案事項にも、もちろん根本に認識の違いや政策の方向性の差異の問題があるのだろうが、それと同時に、外交的言語がどのように交差し、通信されるかという問題もある。外交的修辞としての言語の選択や翻訳の役割が、根本的政策や立場の違いに先行して問題を複雑にすることがある。またそこには、単純な言語表現に加えて、振る舞いや表情、意思伝達の方法、外交儀典の形式等もふくまれる。
近時、日韓間の外交懸案をめぐる対立が先鋭化したとき、韓国の世論は、日本の政治家、外交官たちの言語だけではなく、たとえば韓国の外交官に向きあう日本の外相の表情、コミュニケーションの態度、外交団への礼遇の形式などに注目した。それらが生みだす肯定的あるいは否定的な反響は、想像以上に敏感にあらわれ、広範囲に波及した。
国内政治のみならず外交分野でも、言語をはじめとするちいさなコミュニケーションの営みが出発点にあり、その成果や評価にふかく関わっているということを再認識すべきであろう。
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