大野博人(おおの・ひろひと) 元新聞記者
朝日新聞でパリ、ロンドンの特派員、論説主幹、編集委員などを務め、コラム「日曜に想う」を担当。2020年春に退社。長野県に移住し家事をもっぱらとする生活。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
国籍についての仏専門家 パトリック・ヴェイユ氏に聞く
――国籍という概念は1789年のフランス革命以前には存在しなかったのですか。
そうです。ありませんでした。19世紀より前、国民国家ができあがる前にはなかったのです。それは国際関係の主要な主体として登場するのです。
その後、国籍という概念は当然に存在することとして認識されるようになりますが、この言葉が流通するのは19世紀も後半になってから。そのときは、人と国とのつながりを定義するまったく法的な概念として、でした。
――革命期、フランス人とかフランス国民はどんな風に考えられていたのでしょうか。
フランス革命当時に焦点になったのは市民という言葉です。それは二つの意味で使われました。ひとつは主権者として選挙に参加する者、もう一つはその国の人間という意味。ただ革命後の憲法を市民とは何かという点で読んでもよくわかりません。その二つについての混同があるからです。当時もいろいろと考えたようですが、うまい解決が見つからないままでした。まだ国籍という言葉もなかった。
ナポレオン民法典ができてようやく憲法でいう市民とは、選挙に参加する人のことであって、国家と個人との法的な関係についての概念ではないとはっきりさせました。それは英語のシチズンシップという言葉についても同様です。
――つまり、国籍の定義を確立して国民とはだれかをはっきりと決めたのはナポレオン法典からということですね。
この民法典でフランスは革新的なことをしました。考えたのは、当時すでに78歳だったフランソワ・トロンシェという法律家です。いまでいうと100歳にも匹敵する高齢でした。革命後の司法界で重要な役割を担った人で、のちに彼が亡くなったときには、ナポレオンがその遺体をパンテオンに移させたほどの大物です。
彼こそが父系の継承による近代的な国籍の概念を生みだした人物なのです。つまり血統主義という考え方です。それはやがて日本にも強い影響を及ぼすのですが、それは彼から始まっているのです。彼はその考えをナポレオンにさえ受け入れさせました。ナポレオンは、本来は生地主義を維持したかったのです。
――「維持したかった」というのは、革命より前の時代、アンシャンレジーム(旧体制)下ではだれを自分たちの国の人だとみなしていたのでしょうか。
もしフランス生まれの両親の下でフランスで生まれ、フランス領土に住んでいれば自然にフランス人というのが基本でした。
――一種の生地主義ですね。
それが革命のあと、考え方が二つの枝に分かれていくことになります。一つはフランスのナポレオン民法典に始まる血統主義です。これは欧州諸国やアジアにも広がっていきます。これに対して生地主義は英国に残り続けます。
興味深いのは、血統主義をドイツ、当時のプロイセンも取り入れたことです。近代的な法を確立していくうえで日本はプロイセンの法を参考にしたはずですが、それがもともとフランスの法だったことには気づいていなかったかもしれません。だから私の著書は、日本の国籍についての法の起源も説明していることになります。
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