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「口先だけじゃなくて、行動に示せ」(中村哲)

[168]中村哲さん告別式、首里城・島尻、『常陸坊海尊』……

金平茂紀 TBS報道局記者、キャスター、ディレクター

12月10日(火) 午前中「報道特集」の定例会議。少しばかり数字がよかったと「上」は喜んでいる。空虚な思いが拡がるばかり。やるべきことがやられているか。今週は、中村哲氏の特集をやることになる。

 午後、ネットフリックス配給の大作、マーティン・スコセッシ監督『アイリッシュマン』をみる。長い。だが面白い。デ・ニーロの魅力もたっぷり。映画の販路をめぐる主導権というテーマは今後も続くだろうが、ネット側に利があるように思える。夜、神保町で打ち合わせ。明日の早朝便で福岡へ向かうことに。

12月11日(水) 朝、6時25分発の便で福岡へ。Kディレクターらと合流。空港からすぐに会場へ。13時から始まる、ご家族とペシャワール会の合同葬儀・告別式。会場の入り口脇の駐車場スペースには報道陣のたまり場がすでにできていた。式が進行中の会場内の撮影は行わないことで合意ができていた。それにともない、午前11時過ぎから弔問客が入場する前に会場内を報道陣が撮影する段取りもすでに決まっていた。こういう場で混乱は避けたいところだ。

 みると報道陣は、記者もカメラマンもディレクターもVEさんたちもおおよそ黒っぽい服装に身を包んでいた。すぐ横のカメラマンをみたらひょんなことに早稲田の教え子のゼミ生(もぐり)だったK君ではないか。彼は今年からNHK福岡放送局の報道カメラマンをしているのだった。こういう場所で一緒になるとは。僕らは2カメ体制だが、彼らは5カメ体制。

 11時過ぎに会場内に入ると、中央正面に中村さんの大きな写真が菊の花に囲まれ掲げられていた。だが目を引いたのは、中村さんと同時に亡くなったアフガニスタン人5人の遺影が小さいけれどもきちんと掲げられていたことだった。ギリギリまで取材を続けていたが、あとは参列者の一人として会場内の式に弔問者として参列した。会場内には次々に弔問者が訪れて、とても入りきれない。後ろの方に立っている人、さらには建物の外に人が溢れていた。キャパが750人ほど。その倍くらいの人が訪れていたのではないか。

中村哲さんの遺影が飾られた祭壇=福岡市中央区拡大中村哲さんの遺影が飾られた祭壇=福岡市中央区

 弔辞を聴いていて本当に心を揺さぶられた。どれも素晴らしい弔辞だった。2番目に弔辞に立った在東京のアフガニスタン大使、バシール・モハバット氏は「アフガン国民全体が悲しんでいます。あなたは英雄です。中村さんを救えなかったことを本当に申しわけありません」と泣きながら日本語で述べていた。

 その後も、大学、高校、中学、小学校時代の級友が弔辞を続けた。洗礼をした牧師さんもお別れを述べた。高校時代の同級生は「哲っちゃん、お帰りなさい」と語り始め「人は愛するに足り、まごころは信じるに足る」との故人の言葉を引用し滂沱の涙を誘っていた。

 最後に遺族を代表して長男の健さんが挨拶した。健さんがまず口にしたのは次のような言葉だった。「最初に申し上げたいのは、父を守るために亡くなられたアフガニスタンの運転手の方・警備の方そして残されたご家族・ご親族の方々への追悼の想いです。申し訳ない気持ちでいっぱいです。悔やんでも悔やみきれません。父ももし今この場にいたらきっとそのように思っているはずです。家族を代表し心よりお悔やみを申し上げます」。僕は正直ハッとした。自分はどこまでそのことを、一緒に亡くなったアフガニスタンの人々のことを意識していただろうかと。

銃撃事件で中村哲医師とともに亡くなったマンドザイさんの遺影を持つ子どもたち=2019年12月13日、カブール、ジャヘド・アハディ撮影拡大銃撃事件で中村哲さんとともに亡くなった警察官マンドザイさんの遺影を持つ子どもたち=2019年12月13日、カブール ジャヘド・アハディ撮影

 最後の方に健さんが言った父親としての哲さんとの思い出も心に深く刻まれた。「……父がアフガニスタンへ旅立つとき、私と2人きりで話す場面ではいつも『お母さんをよろしく』『家をたのんだ』『まあ何でも一生懸命やったらいいよ』と言っていました。その言葉に、父の家族への気遣い・思いを感じていました。……私自身が父から学んだことは、家族はもちろん人の思いを大切にすること、物事において本当に必要なことを見極めること、そして必要なことは一生懸命行うということです。私が20歳になる前はいつも怒られていました。『口先だけじゃなくて、行動に示せ』と言われていました。『俺は行動しか信じない』と言っていました。父から学んだことは、行動で示したいと思います。この先の人生において自分がどんなに年を取っても父から学んだことをいつも心に残し、生きていきたいと思います」。

 弔電が披露されたが、上皇・上皇后に続いて、最初に読み上げられたのは、おそらく全文であろう、長い弔電だった。沖縄県の玉城デニー知事からのものだった。第1回沖縄平和賞の受賞者が「中村哲を支援するペシャワール会」だったことから、平和を愛した中村さんを讃えた内容だった。

 その後、僕も献花して、棺の中の中村さんのお顔をみた。静かに眠っているようにみえた。時計をみたら14時15分を過ぎていた。式典の撮影は禁止されていたが、主催者の要請で記録用に会場内部の撮影を日本電波ニュースが行っていた。みるとカメラマンは旧知のMさんだった。言葉を交わしたが純粋に記録用とのことだった。

 会場の後ろを見ると、本当に次々に人々が訪れていた。さらに会場の外に出ると、中に入りきれずにたたずんでいる人々が大勢いた。明らかにアフガニスタンや中東からの人と思われる弔問者もいた。ディレクターの2人と携帯で連絡しあいながら、それらの人にインタビューをした。出棺のシーンを見守っている弔問者も大勢いた。車が出る時、涙をながして手をあわせる人がいるとともに、拍手も沸き起こった。その人柄と功績に対しての称賛と哀悼の入り混じった拍手だろうか。

 式が終了し、後かたづけの行われている会場内に入った。正面にまだ中村さんの大きな遺影があった。そして5人のアフガニスタンの犠牲者の写真も。その後、会場をあとにして宿舎にチェックイン。少しだけ体を休めた。夜、スタッフたちと飲食。急死したI記者にみんなで献杯した。

ペシャンコにされてもへこたれないぞ!

12月12日(木) 午後4時からのペシャワール会の記者会見まで、福岡在住の旧知の人々と短時間でも会う。ペシャワール会の会見では、中村さんの遺骨の一部を分骨して、アフガニスタンの砂漠から緑化に生まれ変わった地に埋葬する意向が伝えられた。きのうの弔問者の数は1800人を超えていたそうだ。

 会見終了後、僕はそのまま空港に直行し羽田に帰った。何と馬鹿なことに、

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筆者

金平茂紀

金平茂紀(かねひら・しげのり) TBS報道局記者、キャスター、ディレクター

TBS報道局記者・キャスター・ディレクター。1953年、北海道生まれ。東京大学文学部卒。1977年、TBSに入社、報道局社会部記者を経て、モスクワ支局長、「筑紫哲也NEWS23」担当デスク、ワシントン支局長、報道局長、アメリカ総局長、コロンビア大学客員研究員などを経て、2010年より「報道特集」キャスター。2004年、ボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『沖縄ワジワジー通信』(七つ森書館)、『ロシアより愛を込めて――モスクワ特派員滞在日誌 1991-1994』(筑摩書房)、『二十三時的――NEWS23 diary 2000-2002』(スイッチ・パブリッシング)など。共著に『テレビはなぜおかしくなったのか<原発・慰安婦・生活保護・尖閣問題〉報道をめぐって>』(高文研)、『内心、「日本は戦争をしたらいい」と思っているあなたへ』(角川書店)など多数。

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