「疑似政権交代」と「二大政党制」。どちらが令和政治の主流になるのか?
2020年01月05日
2020年の政局を予想せよと言われて、ふと思い出したことがある。そういえば、我が朝日新聞に昔から伝わる秀逸な警句があったではないか。
駆け出しの政治記者の頃に先輩から聞かされて、うまいことを言うものだと舌を巻き、政治部長の時には密かに座右の銘にしていた。別に社外秘でもなかろうから紹介しよう。
――朝日新聞にあてにならぬものが三つある。政治部長の政局観と、経済部長の景気観と、社会部長の正義感だ。
ちょっと社会部に分が悪いのが申し訳ないのだが、ともかく分かったようなことを決め付けで言うなという有り難い教えなのだろう。分からないことは分からないと正直に言った方が良い。
その伝に従えば、昨年暮れの政局予想記事を読んで「分からない」ことのひとつは、いかにも「例年通り」の政局論議に終始している点であった。
通算の首相在籍日数が憲政史上最長を記録した安倍晋三首相が、さらに自民党総裁「4選」によって任期延長を手に入れるか否かが、まことしやかに議論される。「ポスト安倍」に関しては、十年一日のごとく世論調査で現れる「個人人気」に拠った下馬評が行われ、小泉進次郎氏が下がった、石破茂氏が上がったと、ほんのちょっとの数字の出し入れが、さも大ごとのように喧伝(けんでん)される。
一方、「桜を見る会」に続いて「IR疑惑」が火を噴き、安倍内閣支持率が急落するなか、野党は森友・加計学園疑惑のときと同様、政権の命運は尽きたとばかり攻勢をかける。だが、立憲民主党をはじめ野党の政党支持率は総じて上昇機運に乗らず、来る衆院選に向けて「大同団結」が叫ばれても、政策を含めた野党連合政権構想は一向に明確な像を結ばない。
こうした二極構造は、安倍政権下で我々が何度も目撃した現象である。ただ、だからと言って、今度もいずれは内閣支持率が回復し、株価の堅調ぶりを見極めて安倍首相が解散を断行、結局は状況をリセットするのだと、「分かったような」ことを言うつもりはない。
なぜなら、2020年が「例年通り」であるはずもない、数々の転換期が“惑星直列”のように重なる「特異年」であると思うからだ。
どういうことか?
なにより、夏には東京オリンピック・パラリンピックがある。戦後昭和の高度経済成長の号砲となった1964年の東京五輪がそうだったように、次の時代がどうあるべきかについて射程の長い論議が起きようし、人々の意識も研ぎ澄まされよう。
オリ・パラ後には景気の落ち込みが予想されることもあり、二度の消費増税を果たした安倍政権の次の政権の経済政策はどうあるべきかも、議論が白熱しよう。それは、安倍氏の次の首相が誰であり、またどのような政権をつくるべきかの論議と表裏一体のものにならざるを得ない。
すなわち、ポストオリパラ、ポストアベノミクス、ポスト安倍が、別の言い方をすれば、「社会状況」と「政策」と「リーダー」の三つが同時進行で転換期を迎える「画期の年」なのだ。
そこで政治家と政治記者がするべきは、辻占いのような一時の与野党の勝ち負けではなく、日本の政治をバージョンアップさせるために必要な論点の整理であろう。
そうした観点からすれば、昭和の東京五輪直後の政局は、いかにも示唆に富む。とりわけ、佐藤栄作政権下で1967年1月に行われた「黒い霧解散・総選挙」からは、自民党と社会党のその後の運命を定めた点で、今日的な教訓を汲み取ることが出来るだろう。
昭和の東京五輪は、安倍首相の祖父・岸信介が首相だった1959年に開催が決まり、後継の池田勇人首相が自民党総裁3選を決めた後、開会式を見守った。安保紛争で倒れた岸の強権政治から、所得倍増政策と「寛容と忍耐」を掲げた池田の低姿勢政治への局面転換の象徴でもあった。
だが、池田はすでに病魔に冒されており、開会式から帰って入院。2週間の党内調整を経て、佐藤が後継に選出される。
当時の政局状況は、ベテランの政治記者3人が80年代初頭に座談した『戦後保守政治の軌跡』(岩波書店)に詳しい。
佐藤政権の発足は東京五輪後の不況と重なった。山陽特殊鋼の倒産や山一証券の経営危機など景気の落ち込みは深刻だった。共同通信の内田健三・元論説委員長は「はじめの一、二年は、こんなに評判の悪い内閣は珍しいくらいだった」という。
佐藤政権は赤字国債発行による大規模公共工事や、法人税引き下げで景気回復を急ぐが、その過程で生じたのが一連の疑惑、「黒い霧」である。
衆院決算委員長を長く務めた自民党衆院議員が恐喝、詐欺容疑で東京地検に逮捕される。運輸相が国鉄のダイヤ改正にあたり、自分の選挙区の駅に急行を停車させるようにした問題が発覚、辞任する。さらに防衛庁長官が同庁首脳を引き連れて「お国入り」した問題や、農相が娘夫妻や知人を同行させた「官費観光旅行」問題が浮上する。共和製糖グループの不正融資や国有農地払い下げ事件も続いた。
政治家が権力と地位を利用した疑惑と公私混同の不祥事のオンパレードだった。それゆえ内田氏は、黒い霧解散について「うまくいくはずのない総選挙なんですよ」と回顧するのだが、結果は違った。「自民党が負けないんだ。社会党が少し減り、それで佐藤内閣は長期化した」のである。
その理由を朝日新聞の石川真澄・元編集委員は、「一言で言えば社会党があまりにも変わらなすぎた」と喝破する。
社会党の江田三郎書記長が現実路線に立つ構造改革論を「江田ビジョン」としてぶち上げたのは、池田政権下の1962年だった。だが、党内左派が徹底抗戦。結局、資本主義に否定的態度をとり、階級対立を強調する社会党綱領をまとめたのは、黒い霧解散前年の66年だった。
石川氏は容赦ない。
「経済の高度経済成長期に入って社会構造や国民の意識が大きく変わる時期になっていたのに、それに適応しようとせず、古い左翼の教条にこだわりつづけた」。
黒い霧解散の本当の勝者は、保守的な中核、経済成長で生まれた中間層を獲得し、「政権交代」を党内だけに収める、換言すれば「疑似政権交代」にとどめることに成功した自民党であった。そして、本当の敗者は、教条主義に偏して現実的な経済政策の対案を出せなかった社会党であり、さらに言えば昭和の政党政治が果たせなかった「二大政党制」論だった。
さて、今日の政局である。
転換期が重なる「特異年」における自民党の本当の狙いを、安倍首相の盟友・麻生太郎副総理兼財務相は以前から公言している。
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