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例年通りではない2020年政局の本当の対決構図

「疑似政権交代」と「二大政党制」。どちらが令和政治の主流になるのか?

曽我豪 朝日新聞編集委員(政治担当)

社会状況・政策・リーダーが同時進行で転換

 なにより、夏には東京オリンピック・パラリンピックがある。戦後昭和の高度経済成長の号砲となった1964年の東京五輪がそうだったように、次の時代がどうあるべきかについて射程の長い論議が起きようし、人々の意識も研ぎ澄まされよう。

 オリ・パラ後には景気の落ち込みが予想されることもあり、二度の消費増税を果たした安倍政権の次の政権の経済政策はどうあるべきかも、議論が白熱しよう。それは、安倍氏の次の首相が誰であり、またどのような政権をつくるべきかの論議と表裏一体のものにならざるを得ない。

 すなわち、ポストオリパラ、ポストアベノミクス、ポスト安倍が、別の言い方をすれば、「社会状況」と「政策」と「リーダー」の三つが同時進行で転換期を迎える「画期の年」なのだ。

 そこで政治家と政治記者がするべきは、辻占いのような一時の与野党の勝ち負けではなく、日本の政治をバージョンアップさせるために必要な論点の整理であろう。

「黒い霧解散・総選挙」とは

拡大黒い霧解散総選挙。1966年12月27日に召集された通常国会は「冒頭解散」され、与野党議員がいっせいにバンザイを三唱、議場をあとにした

 そうした観点からすれば、昭和の東京五輪直後の政局は、いかにも示唆に富む。とりわけ、佐藤栄作政権下で1967年1月に行われた「黒い霧解散・総選挙」からは、自民党と社会党のその後の運命を定めた点で、今日的な教訓を汲み取ることが出来るだろう。

 昭和の東京五輪は、安倍首相の祖父・岸信介が首相だった1959年に開催が決まり、後継の池田勇人首相が自民党総裁3選を決めた後、開会式を見守った。安保紛争で倒れた岸の強権政治から、所得倍増政策と「寛容と忍耐」を掲げた池田の低姿勢政治への局面転換の象徴でもあった。

 だが、池田はすでに病魔に冒されており、開会式から帰って入院。2週間の党内調整を経て、佐藤が後継に選出される。

 当時の政局状況は、ベテランの政治記者3人が80年代初頭に座談した『戦後保守政治の軌跡』(岩波書店)に詳しい。

 佐藤政権の発足は東京五輪後の不況と重なった。山陽特殊鋼の倒産や山一証券の経営危機など景気の落ち込みは深刻だった。共同通信の内田健三・元論説委員長は「はじめの一、二年は、こんなに評判の悪い内閣は珍しいくらいだった」という。

 佐藤政権は赤字国債発行による大規模公共工事や、法人税引き下げで景気回復を急ぐが、その過程で生じたのが一連の疑惑、「黒い霧」である。

 衆院決算委員長を長く務めた自民党衆院議員が恐喝、詐欺容疑で東京地検に逮捕される。運輸相が国鉄のダイヤ改正にあたり、自分の選挙区の駅に急行を停車させるようにした問題が発覚、辞任する。さらに防衛庁長官が同庁首脳を引き連れて「お国入り」した問題や、農相が娘夫妻や知人を同行させた「官費観光旅行」問題が浮上する。共和製糖グループの不正融資や国有農地払い下げ事件も続いた。

 政治家が権力と地位を利用した疑惑と公私混同の不祥事のオンパレードだった。それゆえ内田氏は、黒い霧解散について「うまくいくはずのない総選挙なんですよ」と回顧するのだが、結果は違った。「自民党が負けないんだ。社会党が少し減り、それで佐藤内閣は長期化した」のである。

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筆者

曽我豪

曽我豪(そが・たけし) 朝日新聞編集委員(政治担当)

1962年生まれ。三重県出身。1985年、東大法卒、朝日新聞入社。熊本支局、西部本社社会部を経て89年政治部。総理番、平河ク・梶山幹事長番、野党ク・民社党担当、文部、建設・国土、労働省など担当。94年、週刊朝日。 オウム事件、阪神大震災、など。テリー伊藤氏の架空政治小説を担当(後に「永田町風雲録」として出版)。97年、政治部 金融国会で「政策新人類」を造語。2000年、月刊誌「論座」副編集長。01年 政治部 小泉政権誕生に遭遇。05年、政治部デスク。07年、編集局編集委員(政治担当)。11年、政治部長。14年、編集委員(政治担当)。15年 東大客員教授

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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