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中国における「日本人スパイ狩り」の背景

陳文清氏の国家安全省トップ就任が意味するもの

柴田哲雄 愛知学院大学准教授

中央規律検査委員会副書記時代の陳文清氏(「中国共産党新聞網 中国領導幹部資料庫」から)

はじめに

 周知のように、近年中国において、日本人が相次いでスパイ容疑で拘束されています。インテリジェンス活動やカウンター・インテリジェンス活動を担う国家安全省の当局によるものです。幸いにして、北海道大学の40代の男性教授は拘束を解かれ、無事に帰国することができました。しかしその後も、伊藤忠商事の40代の男性社員(2018年2月に広東省広州市で拘束)が懲役3年の刑を科され、さらには介護関連の50代の男性従業員が湖南省長沙市で拘束されました。2015年以降にスパイ容疑で拘束された日本人は少なくとも15名に上り、そのうち9名に懲役3~15年の実刑判決が下されています。日本人スパイ狩りの様相を呈していると言ってよいでしょう。

 一般的には、2014年から15年にかけて「反スパイ法」や「国家安全法」が制定されたことを契機にして、日本人スパイ狩りが始まったと理解されています。確かにその通りなのですが、他方で忘れてならないのは、中国がいまだに法治ではなく人治の国だということです。そこで2015年前後における国家安全省の人事についてみていく必要があります。

 2015年4月に陳文清氏が国家安全省党委員会書記に就任して、同省を掌握しています(同省大臣に就任したのは、1年半近くたった2016年11月になりますが、後述するように、これだけ期間が空くのは極めて異例な事態です)。陳文清氏による国家安全省のトップ就任と、日本人スパイ狩りとの間には、果たしてどのような関係があるのでしょうか。以下で、公開情報をもとに、筆者なりに仮説を立ててみたいと思います。

西南政法大学、馬建氏との関係

 まず、陳文清氏のプロフィールからみることにしましょう。陳文清氏は諜報機関のトップなだけに、そのプロフィールについては不明な点が多々あります。公的な発表によれば、陳文清氏は1960年1月に四川省の省都・成都市から南に50キロほどのところにある眉山市仁寿県で出生しました。仁寿という地名は1400年ほど前の隋朝のころから使われており、仁寿からは古来、幾多の著名な人物が輩出されています。

 陳文清氏の父親は、20年連続で四川省の模範的人物に選ばれるほどの優秀な警察官でした。若き日の陳文清氏はその父親から大きな影響を受けます。たとえば陳文清氏は、中国最高学府の「清華大学や北京大学に十分合格できるだけの点数を引っ提げて、西南政法大学法律学部に出願しようと固く決心していたが、そのように決心したのは父親の影響を深く受けていたからだ」と回想しています。陳文清氏は父親からかねがね西南政法大学法律学部への進学を強く勧められていたのでしょう。陳文清氏は念願がかなって、1980年9月に入学することができました(84年7月に卒業)。

 西南政法大学は日本ではそれほど知られていませんが、かつて蔣介石率いる国民党軍の将校を輩出した黄埔軍官学校になぞらえて、「法学界の黄埔軍官学校」と言われるほど、今日の中国の政界や法曹界に数多の人材を送り出しています。その筆頭は、陳文清氏と同い年ながら、一足早く1978年に入学した周強氏です。周強氏は湖南省のトップを経て、今日最高人民法院(日本の最高裁に相当)のトップの座にあります。清華大学や北京大学ではなく、ほかならぬ西南政法大学を目指すようにという父親の勧めも、あながち的外れなものではなかったのです。

 ここで注目すべき点とは、陳文清氏が国家安全省党委員会書記に就任するのと前後して、反腐敗闘争により失脚した同省前副大臣(テロ・スパイ防止担当)の馬建氏が、陳文清氏よりも4歳年長ながら、クラスメートだったことです。また両者は、西南政法大学のOBにして、国家安全省元副大臣の牛平氏によって、ともにひきたてられています。陳文清氏と馬建氏との間で、なにがしかの交流があったことはまちがいないでしょう。

 なお、馬建氏はかの周永康氏の人脈に連なっていました。周永康氏とは、江沢民派の大物にして、胡錦濤政権時代のチャイナ・ナイン(共産党中央政治局常務委員)の一人でありながら、反腐敗闘争により失脚した人物です。周永康氏の命令の下で、馬建氏は国家安全省の諜報網を利用して、習近平氏や李克強氏らの個人ファイルを作成していたとのことです。

四川省時代:周永康氏との関係

 陳文清氏は、在学中の1983年3月に共産党に入党し、84年7月に大学を卒業すると、父親の影響もあってか、警察畑の道を歩むことにします。四川省楽山市の公安局派出所を皮切りに、同市の公安局で出世を重ね、1992年12月には同市公安局長に就任しました。もっとも陳文清氏は、部下に危険な現場を任せて、自らは安全なオフィスで待機しているような官僚タイプではなかったようです。楽山市五通橋区公安分局長だった1988年11月に、自ら生命の危険を冒してまで、射撃名人の凶悪犯を逮捕する現場に居合わせたとのことです。

 陳文清氏は、1994年8月に公安系統から国家安全系統に異動することとなり、四川省国家安全庁副庁長に就任し、98年1月には同庁のトップに就任しました。陳文清氏の四川省国家安全庁のトップとしての活躍ぶりについては、『人民日報』系列の『環球時報』のサイトが、次のように報じています。陳文清氏は自らチームを率いて各地で捜査に当たるなどした結果、「四川省の安全工作はあっという間に全国の先頭に躍り出るようになり、同省の党委員会や中央の国家安全省から高い評価を得るに至った」と。陳文清氏はこうした活躍ぶりも手伝って、2002年4月に42歳で四川省人民検察院検察長に抜擢されます(2006年8月まで)。就任当時、省クラスの検察長としては最年少でした。

 もっとも、陳文清氏の四川省国家安全庁での活躍ぶりは、「邪教」として弾圧を被ってきた法輪功側からすれば、苛烈な弾圧を意味しています。法輪功側によれば、江沢民政権が弾圧を開始した1999年7月から2004年2月までの間に、四川省(重慶直轄市を除く)では、拷問の末に死に至らしめられた信徒が少なくとも60名に上り、その死者数は全国5位だったとのことです。陳文清氏の活躍ぶりもあって、「四川省は法輪功に対する弾圧が最も深刻な省の一つになった」というのです。

 また陳文清氏は、市民による民主化の動きに対しても、江沢民政権以上に容赦ない弾圧を加えています。当時、四川省では人権活動家の黄琦氏が「六四天網」というウェブサイトを立ち上げて、官僚の汚職や人権侵害を告発していましたが、そうした告発は、一部の官製メディアからはもとより、首相の朱鎔基氏からも注視されていました。2000年2月に朱鎔基氏が「六四天網」の告発に基づいて、調査チームを四川省に送り込もうとしたところ、「陳文清の委託を受けたと称する」同省国家安全庁の当局者が「六四天網」の事務所に押し入り、黄琦氏を脅すという事件を起こしました。最終的に黄琦氏は国家政権転覆扇動罪のかどで逮捕され、5年間の服役を余儀なくされます。

 ここで注目すべき点は、周永康氏が1999年から2002年にかけて四川省のトップの座にあったことです。その間、陳文清氏は四川省国家安全庁のトップを務めていました。前述したように、『環球時報』のサイトは、陳文清氏の活躍ぶりによって、「四川省の安全工作はあっという間に全国の先頭に躍り出るようになり、同省の党委員会や中央の国家安全省から高い評価を得るに至った」と報じていました。「同省の党委員会」とは言うまでもなく、周永康氏自身を指しています。すなわち陳文清氏は当時、周永康氏の覚えがめでたい幹部の一人になっていたのです。四川省時代の陳文清氏は、江沢民氏・周永康氏の派閥の中心とは言えなくても、少なくともその周辺に位置していたのはまちがいないでしょう。

蛇の道は蛇

 陳文清氏にとって幸いだったのは、その後、習近平氏の牙城であった福建省に転出することができたことです。陳文清氏は2006年8月に46歳で、福建省の党幹部の腐敗を取り締まる同省規律検査委員会のトップに栄転したのです。就任当時、省クラスの規律検査委員会のトップとしては最年少でした。習近平氏は、1985年6月から2002年9月まで福建省で省長をはじめとする要職を歴任しており、陳文清氏が福建省に転出した2006年8月には、浙江省のトップの座に就いていたものの、まだ福建省には多数の側近が残っていました。習近平氏の側近は、陳文清氏を福建省に引き抜くに当たって、習氏の意見を求めたところ、習氏は陳氏の履歴を見て、まだ若いことから、指導者として成長する余地が大きいと考えて同意したのです。

 陳文清氏は習近平氏の期待に背くことなく、福建省で治績を挙げました。そうしたことから、陳文清氏は元々習近平氏の派閥に属していたわけではなかったものの、

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