発足100周年の国際連盟から我々は何を学ぶか
第2次世界大戦を防げなかった国際平和機関の「失敗」ばかりとはいえない実態
鈴村裕輔 名城大学外国語学部准教授
米国主導のワシントン会議の意義
イギリス、フランス、イタリアとともに発足時から常任理事国の一角を占めた日本にとって、国際連盟は日本の国際的な地位の高まりを象徴するものだった。一方、国際連盟の加盟を断念した米国にすれば、ヨーロッパでの戦争の次に起きるであろう紛争は東アジアから太平洋にかけての地域であると見ており、日本の台頭を抑止することが重要となっていた。
このような背景から開催されたのが、1921年11月から22年2月まで行われたワシントン会議だった。
米国が初めて主催した国際会議であるワシントン会議は、従来、この種の会議を主催してきたイギリスが参加国の一員にとどまったこととあわせて、第1次世界大戦後の国際秩序の主たる担い手がイギリスから米国に移ったことを示す出来事でもあった。

ワシントン軍縮会議開会。1921年11月12日から翌年2月2日まで、海軍軍縮と極東・太平洋問題に関する国際会議で、アメリカの提唱によってワシントンで開催された=1921年11月12日、米国ワシントンの大陸記念会館 (新聞聨合社撮影)
日本国内では、米国主導のワシントン会議に参加することで日本に不利な条件が科されることを懸念し、参加を見送る声もあったが、結局、海軍大臣加藤友三郎を首席全権とする使節団が派遣された。約3カ月に及ぶ会議の末、5カ国条約、4カ国条約、9カ国条約が結ばれ、いわゆる「ワシントン体制」が確立された。
米英仏日伊の主力艦保有数を制限する5カ国条約、太平洋の島嶼について現状維持や日英同盟の解消を目的とする4カ国条約、中国に対する門戸開放政策の承認や領土保全などを定めた9カ国条約は、太平洋と東アジアの新しい国際秩序の形成と、日本の抑制と孤立化という米国の目的を達成するには十分であった。
日本に「実利」をもたらした軍縮
「対米6割」という主力艦保有数の制限は、第1次世界大戦後に海軍力の増強を目指していた日本海軍にとっては痛手であった。それでも日本政府が5カ国条約を受け入れたのは、日本が常任理事国として指導的な立場にあった国際連盟において、軍備縮小が主要な課題の一つであったこと、さらに各国の建艦競争の中で、国家予算に占める軍事費の割合が高まり、財政を圧迫していたことが大きな理由であった。
実際、ワシントン会議が開催された1921(大正10)年度の日本の一般歳出は約14億8985万円で、うち軍事費は約7億3056万円であり、一般歳出に占める軍事費の割合は約49.0%に上っていた。それが、23年8月に5カ国条約の効力が発した後、24(大正13)年度予算における軍事費は約4億5519万円となり、一般歳出額約16億2502万円の約28.0%まで低下した。
社会保障費の削減が課題となる現在の日本では想像しにくいだろうが、当時の日本にとって財政上の懸案事項は軍事費の扱いであった。その後、1930年まで国家予算に占める軍事費の割合が20パーセント台後半で推移したことを考えるなら、日本政府にとってワシントン体制は、不利な条件ではあったものの、軍事費の膨張を抑制するという「実利」をもたらすものであった。
1920年代の日本の外交政策の基本は、24年から31年にかけて4回にわたって外務大臣を務めた幣原喜重郎に代表される「国際協調主義」であった。そして、国際協調主義とは、決して理念的な外交政策ではなく、実益を伴うものでもあったのである。