小此木政夫さんに聞く「朝鮮と日本の過去・未来」(2)
2020年01月19日
慶応大学名誉教授の小此木政夫さん(74)が日本の歴代政権の外交の助言役になるのは、1990年代の橋本龍太郎政権からだという。
小此木「あまり人に語ったことはないのですが、関係者はみな亡くなられているし、そろそろいいでしょうかね…。橋本龍太郎さんとの関係が最初です。それ以前は、政治とはほとんど無関係で、テレビのニュース解説とかによく引っ張り出される日々でした。(北朝鮮が全斗煥大統領を暗殺しようとした)ラングーン爆弾テロ事件とか、三金(金大中、金泳三、金鍾泌)が争う大統領選挙とかについて発言するようになりました」
「三金」のなかで小此木さんが最も評価していたのは、金泳三氏だったという。
当時、日本のメディアや市民運動家たちの間では、金大中(キム・デジュン)氏を支持する人が多かった。民主化運動のカリスマ的存在だったこと、1970年代、朴正熙(パク・チョンヒ)政権の下、東京のホテルで韓国中央情報部(KCIA)に拉致された事件や、死刑判決を受けても金氏が政界によみがえったことなどで、日本のリベラル層に強烈な印象を与えていたからだ。
小此木「僕は、自分が『運動圏』(市民運動派)でなかったこともあり、そのへんの違いがあったのかもしれないのですが、今でも金泳三をそれなりに高く評価しています。なぜなら、韓国の民主主義というのは軍の介入によってつぶされ続けた民主主義だから。民主化というのは、軍をいかに政治から撤退させるかということを意味していたのです。金泳三は、例の『ハナフェ』(軍部内の私的組織、軍閥)を粛清し、軍を政治から撤退させた、その功績が大きいわけです。あの時点で金大中が政権の座に就いたら、クーデターになったでしょう」
ハナフェは韓国語で「一つの会」を意味し、全斗煥が朴正熙大統領黙認の下、慶尚道(地図で言うと半島の右下の部分)出身の将校らを人事面で優遇した暗黙のネットワーク。朴大統領が暗殺されると、ハナフェ主導のクーデターが起き、メンバーの全斗煥、盧泰愚が政権を奪う形になった。
小此木「金泳三さんは、韓国でもあまり評価されてこなかったと思いますが、彼の言っていた選挙革命、議会で多数を取って民主革命を起こすという考え方…街頭闘争をやったらDJ(=金大中氏の略称)に勝てないこともありましたが…、その思想に私が共感を持った部分もあり、YS(=金泳三の略称)とは特に親しかったのです。その後、YSが大統領になり、橋本さんが自民党総裁になる1995年ごろには、いつでもYSに会えるような関係でした」
戦後50年の1995年、自社さ連立政権で首相を村山富市氏(社会党委員長)が務めていた。通産相だった橋本氏は9月の自民党総裁選で小泉純一郎氏を破って新総裁となり副総理も兼務。次期首相の座につくことが確実視されていた。
この時、小此木さんは、友人を通じて「四元義隆」という人物から「会って話を聞きたい」と誘いを受ける。
小此木「最初は韓国の事情を知りたいので話をしてくれと。でも本当の目的は、韓国に行って金泳三大統領と会わせてくれということでした」
中曽根康弘、竹下登氏ら歴代の総理の指南役となり、黒幕というよりは、万年顧問のように表舞台にたびたび登場した。
首相の日々の行動を記録する新聞の「動静」欄にも何度も登場する。上野の寺で総理経験者と一緒に座禅を組むことでも話題になり、細川護熙・元首相、武村正義・元官房長官ら、与野党を問わず政界・財界要人と幅広いネットワークを築いた。
1986年10月には、中曽根首相訪中の直前、自ら訪中して中国側要人と首脳会談のお膳立てをしたことでも知られる。
小此木さんは四元氏の依頼を受け入れ、一緒に青瓦台(韓国大統領府)に出向く。
小此木「冬の冷える日でした。特に事前の打ち合わせはせず、金泳三さんには『紹介したい人がいる』とだけ話しました。四元さんの話は要するに、『次の総理は橋本龍太郎だからよろしく頼む』という一点でした。四元さんは、橋本龍太郎さんの父親代わりみたいなところがあって、橋本さんの父の龍伍さん…厚生大臣や文部大臣をされた方ですね…その龍伍さんと深い友人関係にあったようで。自分のステッキを、龍伍の形見だとも言っていました。
僕が通訳をして、そういう話をしただけです。ただ、別れ際に金大統領があらたまって『橋本総裁によろしくお伝えください』と言ったのです。それだけの会談だったのですが、四元さんは『これでつながった』と解釈した。そのことを帰って橋本さんにしっかり伝えたわけでしょう」
年が明け、橋本氏は1996年1月、総理の座に就く。
2カ月後、アジア欧州首脳会議(ASEM)が開かれたバンコクで金泳三大統領と対面し、いきなり1時間半会談した。6月には韓国・済州島でも首脳会談。翌年は金大統領を大分・別府温泉に招いた。両首脳の在任中は、サッカー・ワールドカップの日韓共催が決まったり、韓国で通貨・金融危機が起きた際には橋本首相がいち早く電話で100億ドル規模の支援を伝えたりするなど、濃密な関係を築いた。
歴史を振り返れば、次の小渕恵三・金大中両首脳による「パートナーシップ宣言」への道筋をつける役回りだった。
小此木「私のしたことと両首脳の関係に何の関係があるのか? もちろん分かりません。ただ、橋本さんが最初に金泳三さんと会った時に『ヒョンニム』(韓国語でお兄さん)と言ったとか言わないとか、政治の難しい話とは別に、事前にお互い好意を持っていることをそれぞれ確認できたことによって、出だしがスムーズにいったように見えました。
その時は(個人同士の関係は)さほど重要な問題ではないと思っていたのですが、日韓のどちらかの政権がスタートする時に、ぎくしゃくしがちなのを見ると、間でコミュニケーションを取る人が必要なのかな、とも感じます」
小此木さんはその後、日本の歴代政権とも助言役として関係を持つようになる。
小泉政権では、外交政策分野の補佐をする「タスクフォース」(座長・岡本行夫内閣官房参与)のメンバー7人に選ばれた。
小此木「岡本行夫さんのタスクフォースがスタートして気づいたのは、小泉さんはアジアとほぼ全く縁のなかったことです。米とはブッシュ大統領(ジュニア)と良い関係をつくることができたけれど。これは自民党の派閥のせいもあるでしょう。中国とは田中派・竹下派が熱心にやっていたこともあって、小泉さんの派閥は中国とは縁が薄かった」
小泉氏出身の森派は、伝統的に親米路線だった。
小此木「だけど総理になったら(アジアに)行かなければいけない。タスクフォースは福田(康夫・官房長官)さんが主催して小泉さんは時々出てくるという感じだったが、2001年10月のアジア外交は、中国に行って1週間後に韓国へ行くというハードな日程で、小泉さんも会合に出て来てみんなでアドバイスするという形だった。私は中国については黙っていたのですが、韓国に行く時はそれなりに助言しました」
小泉首相には、2つのことを口にしたという。
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