国際政治の動向を振り返る
2020年01月15日
年の初めに当たり、改めて昨年の国際政治を振り返ってみたい。2019年とはどういう年であったか。手掛かりに二つのキーワードを考えてみよう。「デモ」と「環境」だ。
2019年が、世界の各地でデモが荒れ狂った年として記録されるであろうことに異を唱える向きはない。香港、インド、エクアドル、チリ、ボリビア、イラン、イラク、アルジェリア、スーダン、レバノンと挙げていけばきりがない。人々は、世界中で怒りの狼煙(のろし)を上げた。何か、共通項があるのか。昨年末以降、欧米メディアは様々に議論するが、どうも、世界で吹き荒れるデモの嵐に共通項らしきものは見当たらない、というのが結論のようだ。
実に、人々は様々な理由で立ち上がった。香港は、中国本土への犯罪人引き渡しが発端だったし、インドでは、イスラム教徒に対する不当な扱いが、ボリビアでは、現職大統領による選挙の不正がデモの発端となった。中には、公共料金のほんのわずかな引き上げが人々の怒りを招いたところもあり、チリでは、地下鉄料金の30ペソ(約4円)が人々の怒りに火を注いだ。レバノンはWhatsApp.というメッセージ・サービスへの課税が人口500万足らずの国で100万人以上を動員するデモに発展したし、イランやエクアドルは、燃料補助金の削減が引き金だった。一昨年のフランスの黄色いベスト運動も燃料税の引き上げが発端だったことは記憶に新しい。
実に人々は様々な理由で怒りを爆発させた。そのこと自体が一つの共通項といえるかもしれない。スイスの高級紙ノイエ・ツリュヒャー・ツァイトゥング紙は、「イデオロギー性がないことが2019年デモの特徴だ」と言う。確かに歴史を振り返れば、人々の怒りが荒れ狂った年は、何らかのイデオロギーがあった。1917年は、厭戦と貧農の生活苦、1968年は、若者のカウンター・カルチャー運動、1989年は、共産主義に対する自由民主主義の勝利だった。これらに比べると、2019年の「脱イデオロギー性」は明らかだ。
そのことは、2019年のデモの形態と深い関係がある。昨年のデモでは「SNS」が大きな役割を果たした。SNS上の誰かの主張が瞬く間に拡散、デモが全土に展開していった。その結果、デモには明らかな「指導者」がいない。かつて、デモは労組や政党が組織するものだった。従って、労組や政党の指導者がリーダーシップを握った。今や、人々は、指導者不在でもデモをそれなりに組織し、怒りの狼煙を上げることができる。明らかな政治形態の変化だ。政治が「労組や政党が指導するもの」から、より「大衆による直接民主制に近いもの」へ変わりつつある。これまで政治は「代議制」が主だった。選挙で選ばれた代表者が国民の負託を得て政治を行う。今後、政治は、代表者に負託することなく、国民一人一人がボタンをクリックして意思決定していくようなものになるのだろうか。
この「指導者不在の抗議」は、事態の収束が困難だ。政府にすれば、誰と交渉すべきか分からないし、そもそも問題の解決に交渉が有効かも分からない。実際、例えばチリでは、最低賃金引き上げに年金増額、貧困層の医療負担削減と、政府が要求のほとんどをのんだにもかかわらずデモは収束しなかった。問題は「交渉」により解決されず、「長期化」し「過激化」する。人々の怒りは燃え盛ることはあっても容易に沈静化することがない。
2019年のデモに共通項を見つけるのは至難としても、「経済」が何らかの形でかかわっている例が多い、とは言えようか。この場合、経済は「格差」と言い換えてもいいかもしれない。
例えば2019年、ラテンアメリカでは、各地でデモが相次ぎ地域全体が社会不安に襲われた。思えば2000年代、ラテンアメリカは次代の成長を担う期待の星だった。その期待の星がなぜ社会不安に襲われる地域になったか。二点が重要だろう。
一つは、「一次産品価格の変動」だ。ラテンアメリカは新興国といわれた割には産業が未発達だ。多くが一次産品に依存する。あの、ラテンアメリカの優等生とされるチリですら主要産品は銅だし、
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