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世界秩序をもたらしたアメリカの過去・現在・未来

「ベルトウェイの外」オハイオ州から見るアメリカと世界史とのかかわり(下)

梅原季哉 朝日新聞論説委員(国際社説担当)

ホワイトハウスで記者からの質問に答えるトランプ大統領=2020年1月13日、ワシントン、ランハム裕子撮影

 前回(「ベルトウェイの外」オハイオ州から見るアメリカと世界史とのかかわり(上)」は、孤立主義と国際的な関与の間で揺れてきたアメリカの歴史をひもときつつ、100年前の1920年、オハイオ州からホワイトハウスへと駆け上がったウォーレン・ハーディングの政権と現在のトランプ政権を比べました。

 一見、似ているように思える二つの政権ですが、トランプ流の「一国主義」は、ハーディングが掲げたような従来の孤立主義的な傾向と比べると、多国間協力の価値や、国際社会に関与することそのものに否定的な姿勢が際立つ点で異なっている、という指摘は重要だと思います。

 ただし、歴史を振り返ると、アメリカの世界への関与がもたらしたものは、プラスの側面ばかりではありません。ハーディングの大統領選からわずか四半世紀後の1945年には、第2次世界大戦の最終盤に広島・長崎に原爆を落とし、「核時代」の扉を開けてしまいました。

 そしてオハイオ州は、実はその点でもゆかりがある土地なのです。

航空機産業の草分けの地

オハイオ州
 原爆製造のマンハッタン計画で、起爆剤として使われたポロニウムは、オハイオ州デイトンの化学会社に設けられた秘密工場で生成されました。

 また、人類初の飛行機をつくったライト兄弟はデイトンの出身で、初飛行こそノースカロライナ州の砂丘で成功させたものの、その後のライト社としての航空機製造は、デイトンの工場を拠点としました。アメリカの航空産業にとって草分けの地であり、それはデイトン近郊に国立空軍博物館が立地していることにも反映しています。

 そして、この博物館に長崎に原爆を投下したB29「ボックス・カー」の実物が保存されているのです。

 30年以上前、私は長崎で記者として働き始めました。そこで、いわゆる原爆担当として、被爆者の皆さんから被爆の実相にふれる体験談を聞いたことが、国際報道に携わるようになって以降も、今に至るまでずっと心に残っている「原体験」です。

 オハイオ州まで来たからには、あの原爆を落としたB29の実物をこの目で見よう。そう思い立ち、マリオンから車で南西へ2時間、デイトンに向かいました。

巨大な格納庫を使った博物館の中でB29「ボックス・カー」のジュラルミンの機体はひときわ目立つ

原爆投下の「ボックス・カー」を展示する博物館

 国立空軍博物館は、いくつもの巨大な格納庫の中に実機が並んで展示されています。ライト兄弟に始まり、第1次世界大戦をへて戦間期までの最初の展示室は、心なしかどこか楽観的というか、飛行機が冒険主義を象徴していた時代の空気が感じられました。宮崎駿監督の「紅の豚」の世界観に通底する、とでもいえばいいでしょうか。宮崎監督が映画「風立ちぬ」に登場させたジャンニ・カプローニの人形も、現実世界で製造した複葉機の傍らに展示されていました。

 ところが、次の第2次大戦の部屋に入ると、そう無垢ではいられない思いに駆られます。真珠湾、コレヒドールといった米軍の敗戦に始まり、欧州、そしてアジアでの反転攻勢という流れ……そのどん詰まりに、「ボックス・カー」の銀色をしたジュラルミンの機体が置かれていました。傍らには投下された原爆「ファット・マン」の黄色に塗られた筐体(きょうたい)や、B29のエンジンも並びます。そのエンジンはやはりライト兄弟の流れをくむカーティス・ライト社の製造であることが記されています。

 空軍博物館という性格を考えれば不思議ではないのですが、この展示は、私のように長崎の被爆者を個人として知る立場の者にとっては、率直にいってやはりかなり抵抗感を感じる構成になっていました。

 まず、最初のパネルの大見出しが「ボックス・カー 第2次世界大戦を終わらせた航空機」であることに象徴されるように、広島・長崎への原爆投下が戦争を終結に導き、本土決戦を回避したおかげで人命を救ったのだ、という歴史観が透けてみえます。

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