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安倍政権と「改革の政治」の曲がり角

平成政治を問い直す【7】改革から右傾化への方向転換

大井赤亥 広島工業大学非常勤講師(政治学)

安倍晋三の思想形成

 2012年12月、第二次安倍政権が誕生する。安倍政権は、政治の優先順位を「改革」から「右傾化」に移しかえた点において、1990年以降の「改革の政治」に一つの曲がり角をもたらしてきた。

 日本政治の「右傾化」には、安倍をはじめとする政治家の属人的要素が大きく影響している。青木理によれば、少年時代の安倍は「可もなく不可もなく、特別な印象がないおぼっちゃま」であり、「高校時代までの晋三には、自らの意志によって深い政治意識の芽を育んだような気配――まして現在のような政治スタンスにつながるそれを育んだ気配は微塵もみられない」(注1)という。

第40回衆議院議員総選挙。山口1区でトップで初当選を果たし、樽酒を割る安倍晋三氏(右から2人目)、母洋子さん(その右)、昭恵夫人(同左)ら=1993年7月18日、山口県下関市

 大学卒業後の安倍は、神戸製鋼所をへて1993年衆院選で初当選を果たす。政界入りした安倍は、同輩世襲議員や右翼評論家といった「お友だち」とのつきあいのなかで復古的信条を吸収し、いつしかそれを内面化していく。それはいわば、凡庸な少年の白紙の心にペンキで塗られた右翼思想の壁画であった。

 しかし、初当選後の安倍は直後に細川政権の誕生を目撃し、野党議員として政治家のキャリアをスタートさせ、「敗北の連続」(中野晃一)を経験することになる。

 1993年、宮沢政権はその退陣直前に河野談話を発表し、第二次大戦中の従軍慰安婦について「こころからお詫びと反省の気持ち」を表明した。1994年、自民党は安倍の本意ならざる社会党との連立によって政権復帰。翌1995年には社会党の主導で戦後50年決議や村山談話が発表され、植民地支配への反省とアジア諸国の人々へのお詫びが表明された。

 1990年代前半は自民党もリベラル派優位の時代であり、憲法や歴史認識といった課題について右派は守勢であった。そのため、この時代を一年生議員として過ごした安倍は、徹頭徹尾、被害者意識を醸成させていった。社会党の村山、宏池会の河野、さきがけの武村らが中心を担った自社さ政権は、リベラル派や左派にとっては達成感に乏しい反面、右派にとっては敗北感や屈辱感だけが残った時代であったといえよう。

 田中派の全盛期に初当選し、そのため「反経世会」を一貫させた小泉と比べれば、安倍の一貫性はリベラル派が主導権を握った自社さ政権時代への復讐心といえよう。安倍の主敵は、「戦後レジーム」を構築してきた――と安倍がいくぶん被害妄想的に考える――日教組や朝日新聞など「戦後民主主義」であり、リベラル左派の知的ヘゲモニーであった。そのような安倍の敵愾心は、永田町では主として民主党や社民党に向けられていく。

アベノポリティクスの信条

 2012年衆院選は自民党の政権復帰をもたらし、第二次安倍政権が誕生する。その後、安倍自民党は、円安株高に支えられた一定の景気回復もあって国政選挙で五連勝し、「安倍一強」を構築していく。

 2000年代以降の「改革保守」は、小泉政権に見られたように、「新自由主義」とナショナリズムの組みあわせとして出現してきた。しかし、小泉と安倍とのあいだで

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