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日本譲歩案に驚き 「日ソ交渉録」取材放浪記

三木元首相所蔵の「56年宣言」交渉秘密文書が母校の明治大学に

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

三木文書の「日ソ交渉会談録」より、河野一郎農相がフルシチョフ共産党第1書記に譲歩案を示した1956年10月17日の会談録=明治大学で藤田撮影

 ロシアとの北方領土問題解決を急ぐ安倍晋三首相が、交渉の基礎として強調する「56年宣言」。1956年、ロシアの前身のソ連と日本が戦争状態を終結させた日ソ共同宣言のことだ。宿題として残った領土問題の交渉が今も継続中だから、と日本政府は56年宣言に至る交渉の詳細を明かしていないが、今回筆者はその大詰めの記録を入手した。朝日新聞での1月の報道に至る経緯を紹介する。

※朝日新聞1月23日朝刊1面「北方領土、日本から譲歩案 記録発見、交渉継続明記せず」。この論座記事の末尾には朝日新聞の関連記事一覧 

「三木文書を知ってますか」

 東京・水道橋近くにある日本大学に信夫隆司教授(日米関係史)を訪ねたのは、2019年9月上旬のことだ。別件での取材の折に、「三木文書を知ってますか」と聞かれた。

 戦前から国政で活躍し、首相まで務めた三木武夫(1907~88)は実に資料を丁寧に残す人で、没後にその膨大な文書が母校の明治大学に寄せられていた。長年かけて電子データ化が進み、検索が容易になったのだという。この企画に関わった信夫氏は、すでに1960年代後半の三木外相当時の小笠原・沖縄返還交渉関連文書に注目して読み込んでいた。

三木武夫元首相ら明治大学卒の著名人の展示=明大博物館で藤田撮影

 三木文書の編集にあたったのは明治大学史資料センター。信夫氏の紹介で東京・御茶ノ水近くの明大キャンパスに赴いて担当者の話を聞き、興味は一層深まった。

 徳島出身の三木は1937年の衆院選で30歳で当選。敗戦後は小政党を率いながら55年の保守合同で自民党に合流し、翌年に幹事長になった。自民党政権でも小派閥の領袖として閣僚や党三役を歴任し、金権政治批判で退陣した田中角栄の後の首相にまで上り詰めた。

 その三木の永田町(政界)での動きや、霞が関(中央省庁)からの報告などの文書、約6万5千点が2004年に夫人の睦子氏から明大に寄贈されていた。このセンターで整理を続け、今回の電子データ化をふまえた目録が19年11月に公開されるとの話だった。そこで私は、目録ができたらまずそれを確認し、面白そうな資料があったら見せてもらうよう担当者に相談することにした。

1ページ目で「おや?」

 後日公開されたPDFの目録を開くと、計573ページ……圧倒される思いだったが、1ページ目にいきなり「おや?」と思うタイトルがあった。

 「日ソ交渉会談録(昭和三十一年九月-十月 於東京及びモスクワ) 1957年7月 欧亜局第3課」

三木文書(丸善雄松堂「オンライン版 三木武夫関係資料」)の件名目録1ページ目。中ほどに「日ソ交渉会談録」とある
 「昭和三十一年」、つまり1956年の10月といえば、1年5カ月にわたる日ソ国交正常化交渉が決着し56年宣言が調印された時だ。そこに至る大詰めの「会談録」を、翌年に外務省のソ連担当課がまとめたものということになる。詳細な会談録であれば、すごい資料だ。

 なぜなら、外務省には「作成から30年経った文書は公開」という原則はあれど、より上位に「継続中の交渉に関する過去の記録は非公開」という大原則があるからだ。56年宣言で北方領土問題が片付かず、それを日本が解決しようとする平和条約締結の交渉が今も続く中、外務省は決着した56年宣言の交渉もこの大原則にあたるとして、今も詳細を明かさない。

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