小此木政夫さんに聞く「朝鮮と日本の過去・未来」(4)
2020年02月02日
小此木政夫・慶応大学名誉教授(74)を中心とした初の日韓歴史共同研究は2005年6月、会議の記録と最終報告書を公開した。日韓文化交流基金のホームページにも収容されている。
筆者が一読して感じたのは、両国政府が支援する公的な共同研究で、これほど赤裸々に不満や個人的思いをぶつけた公式記録は他に例を見ないのではないか、ということだ。
古代史、中近世史、近現代史と3つの分科会で学者同士が3年間議論し、論文集にまとめたのだが、総まとめの合同全体会議(2005年3月)の会議録、特に近現代史の分科会では3年間の苦労話や韓国側の不満があふれている。
「韓国側から15編、日本側から16編、計950ページ以上の論文を提出できたのは、奇跡に近い。初めてだったため各委員が無言の中にも国家を代弁するような重圧感があり、相互に対する批判と牽制の雰囲気が濃厚だった。緊張感を与えるうえでは役立ったが、相手側に対する不信と誤解を増幅させた部分もなくはなかった」
「信頼関係を構築するのに多くの時間がかかりすぎ、1年近くの間、議題にアプローチすることができず、相手の言葉尻をとらえてもめてしまった。不信という高い代価を1年という時間で補わなければならなかった。不信はところどころに潜んでいた」
「(今回は)韓日関係史というより主に日本が関与した韓国史が重要なテーマだった。韓国史研究には愛情がなければ、その歴史から欠点を見つけるために顕微鏡や望遠鏡をのぞき込む作業と何ら変わりがないであろう」(いずれも第6回日韓合同全体会議・会議録から)
例えば1910年の韓国併合条約の有効・無効論に関して、韓国の学者が無効・不法であると断ずる論文を書く。その「補論」と題して別な韓国学者が委任状や批准書の不備について指摘する。さらに「補論」に対して日本の学者が「批准書がないことをもって無効とはいえない」などの「批評文」を加え、これに執筆者筆者が反論のコメントを添える――といった「ディベート」の様相を呈している。
また、「韓日協定と韓日関係の改善の方向」という韓国学者の論文は、韓国の歴史進歩グループが国境を越えて日本のグループとも連帯を模索する必要性を訴え、「基本条約が改定されるのなら、少なくとも日本は韓民族が受けた被害と損失を認め、誠意ある謝罪表明が明示されなければならない」と結んだ。
これに対して、温厚・冷静な学者として知られる小此木さんは論評者として、激しい「批評文」を載せている。
「この論文は、戦後史を分析する学術論文であるよりも政策論である。論評者としては、教授が分析者としての第三者的な立場を離れて、直接的に政治的主張を強く展開していることに驚き、大いに失望した」
小此木さんら日本側としては、「共同研究」から極力、政治色を排し、どちらの政権にもくみしない論文の客観性を保つ必要があったからだった。
小此木「とにかく最終報告書を提出することができたことはよかった。(日韓それぞれの見方の)両論併記ではありますが、歴史認識の相違点を整理する、という当初の目的は達成できたと思っています。もう少し時間をかけて目標や手段を限定し、未来志向の議論もできればなおよかったとは思いますが、次につなぐことができました」
歴史共同研究は、第2期のメンバーに引き継がれ、韓国側が主張していた「研究成果を日本の歴史教科書にも反映すべきだ」という要求を検討するため、教科書の記述に関する小グループを新設。2010年、報告書を公開するまで続いた。
歴史共同研究が学者同士の交流を目指す試みだとすれば、民間レベルの政策協議の場も小此木さんを頼りとした。
1993年、細川護熙・金泳三両首脳の合意で設置された「日韓フォーラム」だ。国会議員や大使経験者を含む「半官製」の性格もあるが、毎年、両国の懸案について自由に討論し、必要があれば政府に提案する。また、民間の立場からそれぞれの発言力を生かして世論に訴えることもある。
スタート時、日本側座長は小和田恒・元外務事務次官、幹事を山本正・日本国際交流センター理事長が務めた。現在、日本側座長を務める小此木さんは、フォーラム創立当時からのメンバーで最古参になった。
小此木さんが「フォーラム」での議論を踏まえ、実現に寄与した大きな「成果」がいくつかある。
例えば「サッカー・ワールドカップの日韓共催」と「羽田―金浦間のシャトル便」だ。この二つとも、小此木さんの提言が朝日新聞の「論壇」に掲載された。
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