東京五輪から原発、メーガン妃から日本の皇室まで、春節にいろいろ考えた
2020年01月31日
新型コロナウイルスが中国人の大移動と重なり広がりを見せている「春節」。韓国も同じ陰暦で正月を迎える国の一つだ。
今年は私も1月20日まで大学の特別講義が入っていたので、年末のギリギリまで仕事をしていた感があった。そして、年末年始。この間、色んな映画を観た。
まずは「チェルノブイリ」。そして「スターリンの葬送協奏曲」。それから「チャーチル ノルマンディの決断」そして「新聞記者」。それから気になったことをユーチューブで探し、NHKドキュメンタリーなどで、昭和天皇、天皇制、2・26事件などなど、観まくった。
「チェルノブイリ」を観たのには、訳がある。日本の福島第一原発のことが気になっていたからである。
今、東京がオリンピックを騒ぐのは分かるが、その騒ぎ方がどうも妙というか、から騒ぎというか、騒げば騒ぐほど、余計に福島が気になったのである。そこで安直だが「チェルノブイリ」はどうなっているのかと覗きたくなったのである。
一々、映画の評をするつもりはなく、これらの映画で共通していたのは、人は得てして「真実」を拒むという事である。
チャーチルは映画の中で「戦争で一番大事なものは、高揚感と希望だ」と言う。映画「チェルノブイリ」では「科学者は真実を求める。しかし、人はそれを忌み嫌う」というセリフが出てくる。日本の戦後、昭和天皇の拝謁記(田島道治記す)によると、先の戦争に対して「反省」という文言を口にしようとする天皇に対し、当時の首相、吉田茂は民に対する「称賛」を天皇に求めた。チャーチルの「高揚感と希望」はどこでも同じだ。
天皇制に関して、私はあまり知識が無いので言及するつもりはないが、人間宣言をしておきながら、彼らには基本的人権が無いなあとつくづく思う。それでいいのだろうか。
英国を揺るがしているメーガン妃の「メグジット」に視線を注いでも、ヘンリー王子が王室離脱をする意志があることには変わりない。今の時代、王室体制や個人としての扱い、そして世間に疑問を持つのは、イギリスだけの話なのか。日本の皇室にも結び付けて論じる絶好の機会のように思えるのだが、対岸の火事を見ているように、その扱いはどこまでもワイドショー的パフォーマンスに尽きる。
象徴とは何なのか、見なければならないことに目を閉じて知らん顔しているようだ。
この間、色々観てきた中で共通することが、もう一つ。
「意志」ある者は組織社会や団体から煙たがられるという事である。意志ある者は疑いをかけられ、その疑念が裏切りだと風潮され、失脚する。だから、脳ある鷹も爪を隠すのか。トンビのふりをして生き残ろうとするしかないのか。
「真実」を求める「意志」があるかどうかが、良いも悪いも大きな岐路となる。
在日が本名を名乗るかどうかという問題。1970年代から在日運動の中では中心的な問題の一つであった。これも、「真実」を見るかどうかに似ている気がする。
本当は韓国・朝鮮名なのに、日本風の名前。もちろん、一世たちがそうせざるをえなかったことは重々承知している。
私が大学時代、1990年後半、だから在日青年もほとんど3世の時代だ。「本名を名乗る」ことに関してのシンポジウムで、私はもともと日本名なので、外野的に扱われていたのだが、最後に意見を求められ、「本名を名乗ることは少なくとも勇気のいることだと思います」と言ったら、「ほう~」とシーンとなったことを思い出す。
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