小此木政夫さんに聞く「朝鮮と日本の過去・未来」(5)
2020年02月09日
終戦の年に生まれ、半世紀かけて日韓関係の浮き沈みを実体験してきた小此木政夫・慶応大学名誉教授(74)は、時々の政権の外交ブレーンの一人として、また民間交流でも代表格として、両国関係を体現してきた。
筆者は日韓共催のサッカー・ワールドカップ後、韓流が最高潮だった2004年ごろ、ソウルで開かれた学術シンポジウムで小此木さんと同席する機会があった。韓流が話題になった時、小此木さんが「僕たちはいったい、何十年も何をやっていたのでしょうね」と苦笑しながらつぶやいたのを覚えている。
あれは、専門家の研究や交流の積み重ねがようやく実を結んだという喜びと、人気歌手・俳優の登場が、あっという間に国の関係を変えてしまうという、学者としての無力感がないまぜになったような思いだったのだろう――その時に思った。
苦笑には、さらに理由があったようだ。
なかなか公然とは個人的な思いを口にしない小此木さんだが、2011年1月、慶大の定年退職を控えた最終講義でこう語ったのだった。
「72年から2年間の韓国留学中に、韓国政治の大転換を目の当たりにしました。同時に、私には日常生活もありました。下宿させていただいた延世大学の先生と家族は本当に親しく面倒を見てくれて、子どもたちもなついてくれました。私は韓国の庶民が好きでした。
留学を終えて日本に帰る時、私は、自分が半分、韓国人になってしまったことに気づきました。それほど韓国にどっぷり浸かってしまったのです。ある意味、ひどく孤独でした。自分のような存在が日本では理解されないことがよくわかっていたからです。
帰国する時に思ったことは、将来、韓国で日本が理解されることはあっても、日本で韓国が理解されることはないだろう。韓国人が日本文化を好きになることはあっても、日本人が韓国文化を好きになることはないだろう、ということでした。
それから20数年たって、日本で韓流現象が起きた時、その予想は完全に裏切られましたが、本当にうれしい誤算でした。少なくとも、私は孤独感から解放されたと言うことができます」
韓国への思いをついに日本社会と共有できるという、孤独感からの解放だったのだ。
小此木「『冬のソナタ』をはじめとする韓流に日本中が夢中になるまでには、いくつかの転換期がありました。まず国交正常化(1965年)当時の東西冷戦、88年ソウル五輪以降の韓国の経済発展と民主化。さらに90年代末の小渕恵三・金大中(キム・デジュン)政権時代の良好な関係を経て、私が夢にも思わなかった時代を迎えました」
今、徴用工判決や慰安婦問題、嫌韓、ヘイトスピーチなどが渦巻き、日韓関係が「最悪」という言葉が飛び交う。
しかし、小此木さんは真っ向から否定する。「悪い」わけではなくて「深刻」なのだ、と。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください