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安倍首相、杉田議員……責任を取らない政治の空虚と弊害

責任を引き受け一人ではできない仕事をするのが政治家の醍醐味のはずなのに……

米山隆一 衆議院議員・弁護士・医学博士

拡大衆院本会議に臨む自民党の杉田水脈氏(中央)=2020年1月23日

 通常国会が開かれて早々の1月22日、代表質問に立った国民民主党の玉木雄一郎代表が、選択的夫婦別姓をめぐり、若い男性が交際中の女性から「姓を変えないといけないから結婚できない」と言われたとのエピソードを紹介した際、自民党の杉田水脈議員と思われる人物が、「それなら結婚しなくていい!」とヤジを言ったことが話題を呼びました。

 また、この問題も冷めやらぬ1月28日の衆院予算委員会で、共産党の宮本議員から、安倍晋三後援会事務所で「桜を見る会」の参加者を「募集していることを何時から知っていたか」と尋ねられた安倍晋三首相が、「私はですね、幅広く募っているという認識でございました。募集しているという認識ではなかったものです」と答弁したことが、さらに大きな話題を集めています。

 二つの発言は、それぞれ違う問題に対して別々の立場でなされたものですが、「責任を取らない政治」という現政権の問題点を端的にあぶり出しているものだと思いますので、本稿ではその点について論じたいと思います。

「責任をとる」とはどういうことか

 「責任」は、政治の世界では極めて頻繁に用いられる言葉です。民主主義社会においては、行政の「責任者」として選挙で選ばれた人が「政治家」とされますから、行政の責任者の立場にある政治家が「責任」を問われるのは当然です。

 いち「議員」の場合は、立場それ自体が「責任者」という事ではありませんが、議員は行政の方向性を最終的に承認・決定する権限と責任を持つ「議会」の一員として選ばれるのですから、これもまた「責任」を問われるのは当然だと言えます。

 では、責任を問われた政治家が、「責任をとる」とはどういうことでしょうか?

 これについては色々な意見があると思いますが、曲がりなりにも知事という政治家を経験したものとして私は、「責任をとる」の80%は「自分がやった事は自分がやったと認めて批判を引き受ける」ことであり、残りの15%が出処進退、5%が善後策の策定・実行だと思います。

 この“基準”に従うと、政治家に何かの責任を問われる事態が発生したとき、「それは自分がやった(判断した)。批判を受けるべきは私だ。」と言った時点で責任の8割は果たしています。逆に、自分がやった事、自分が判断したことを、「自分がやった(判断した)」と言わない限り、職を辞そうが、善後策を講じようが、責任の8割は果たされていないと、私は思います。


筆者

米山隆一

米山隆一(よねやま・りゅういち) 衆議院議員・弁護士・医学博士

1967年生まれ。東京大学医学部卒業。東京大学医学系研究科単位取得退学 (2003年医学博士)。独立行政法人放射線医学総合研究所勤務 、ハーバード大学附属マサチューセッツ総合病院研究員、 東京大学先端科学技術研究センター医療政策人材養成講座特任講師、最高裁判所司法修習生、医療法人社団太陽会理事長などを経て、2016年に新潟県知事選に当選。18年4月までつとめる。2022年衆院選に当選(新潟5区)。2012年から弁護士法人おおたか総合法律事務所代表弁護士。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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