責任を引き受け一人ではできない仕事をするのが政治家の醍醐味のはずなのに……
2020年02月01日
通常国会が開かれて早々の1月22日、代表質問に立った国民民主党の玉木雄一郎代表が、選択的夫婦別姓をめぐり、若い男性が交際中の女性から「姓を変えないといけないから結婚できない」と言われたとのエピソードを紹介した際、自民党の杉田水脈議員と思われる人物が、「それなら結婚しなくていい!」とヤジを言ったことが話題を呼びました。
また、この問題も冷めやらぬ1月28日の衆院予算委員会で、共産党の宮本議員から、安倍晋三後援会事務所で「桜を見る会」の参加者を「募集していることを何時から知っていたか」と尋ねられた安倍晋三首相が、「私はですね、幅広く募っているという認識でございました。募集しているという認識ではなかったものです」と答弁したことが、さらに大きな話題を集めています。
二つの発言は、それぞれ違う問題に対して別々の立場でなされたものですが、「責任を取らない政治」という現政権の問題点を端的にあぶり出しているものだと思いますので、本稿ではその点について論じたいと思います。
「責任」は、政治の世界では極めて頻繁に用いられる言葉です。民主主義社会においては、行政の「責任者」として選挙で選ばれた人が「政治家」とされますから、行政の責任者の立場にある政治家が「責任」を問われるのは当然です。
いち「議員」の場合は、立場それ自体が「責任者」という事ではありませんが、議員は行政の方向性を最終的に承認・決定する権限と責任を持つ「議会」の一員として選ばれるのですから、これもまた「責任」を問われるのは当然だと言えます。
では、責任を問われた政治家が、「責任をとる」とはどういうことでしょうか?
これについては色々な意見があると思いますが、曲がりなりにも知事という政治家を経験したものとして私は、「責任をとる」の80%は「自分がやった事は自分がやったと認めて批判を引き受ける」ことであり、残りの15%が出処進退、5%が善後策の策定・実行だと思います。
この“基準”に従うと、政治家に何かの責任を問われる事態が発生したとき、「それは自分がやった(判断した)。批判を受けるべきは私だ。」と言った時点で責任の8割は果たしています。逆に、自分がやった事、自分が判断したことを、「自分がやった(判断した)」と言わない限り、職を辞そうが、善後策を講じようが、責任の8割は果たされていないと、私は思います。
とはいえ、人から批判されるのは誰にとっても気の重いことであり、何かことが起こったとき、出来ることなら弁解して責任から逃れ、他人に転嫁してしまいたいとは、誰しもが思うでしょう。ことにそれをすることが出来る権力を手にした権力者が、「自分がやったことは自分がやったと認めて批判を引き受ける」、すなわち「責任を取る」ことは、思われているほど簡単な事ではありません。
しかし、「責任をとる」ことが権力者にとって困難であればこそ、適切に「責任をとる」ことは、政治家にとって大きな力になります。
故田中角栄元首相が44歳で大蔵大臣に就任した時、着任の挨拶で次のように述べたことは有名です。
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