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「利他」を考える~東工大「未来の人類研究センター」の挑戦(上)

中島岳志 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

2020年2月1日、東京工業大学に「未来の人類研究センター」が立ち上がった。自己責任論が蔓延する現代の社会において、この新しい研究センターは世界にどんなことを投げかけるのか。センターが最初に掲げるプロジェクト「利他」について、メンバー4名が語る。
伊藤亜紗(センター長・美学者)
中島岳志(利他プロジェクトリーダー・政治学者)
若松英輔(批評家・随筆家)
磯﨑憲一郎(小説家)

中島(東京工業大学 科学技術創成研究院/リベラルアーツ研究教育院教授) 今日は、「未来の人類研究センター」というのが東京工業大学の中に立ち上がる、ということで、その構成員のみなさんに集まってもらいました。ここにもう1名、國分功一郎さんが加わりますが、そんな5人で研究センターが立ち上がります。

 最初に伊藤さんに、この研究センターというのは何をやっていくところなのか、お伺いします。

伊藤(東京工業大学 科学技術創成研究院/リベラルアーツ研究教育院准教授) まず名前のスケールが異様に大きいですよね。「未来」「人類」「研究」。今年、我々の初仕事は焚き火をすることだったんですが、そういう大きいことについて考えるのは、普通の、日常のモードでは無理なのではないかと考えました。

 日常的な視点でものを考えるとすごく短期的な判断しかできないし、研究もできません。我々はそこを大きく出て、短期的な視点ではなく長期的な視点から、「人類とは」という大きいことを考えていきたい。

 焚き火の周りに集まれば、いつも会っている仲間だったとしても、普段と違う会話ができるだろうと思ったんです。そのときのイメージは、未来の人類研究センターのウェブサイトやパンフレットに使われています。

 そういう焚き火の周りでの──「雑談」ですよね、我々にとって大事なのは。今日のこの会話もそうですけど。がっつり研究する──本を読んだり調査をしたりもするんですけど、雑談を交わしながらお互いにいろいろヒントを得て、研究が育っていけばいいかな、と思っています。

伊藤亜紗さん

「利他」というアプローチ

中島 そうですよね。我々のアカデミズムの世界では、「この研究によってどういう結論が得られるか」「どういう風に研究していくか」という計画を、かなり前もって設定をして、それで研究をしていく、ということが要求されることが多いんですけども、それが逆にクリエイティビティ、創造性を失わせることになっているかもしれない。

 むしろ統御できないものとか、他者との応答の中で生まれてくるものとか、そういうものに開いていきたい。そういうことがあって、あまり最初にガチガチにこういうことをやるんですよ、というふうに決めないでやっていく、というのもここの1つの特徴なのかな、と思います。

 そんな中で、最初に取り組もうとしているのが、「利他」っていう問題です。

 利己的な「エゴイズム」みたいなものの逆として「利他主義」が取り上げられたりもしますね。我々はこの「利他」っていうことについて考えていきたいと思っているんですけども、「利他」について、若松さんはどういうアプローチをお考えでしょうか。

若松(東京工業大学 科学技術創成研究院/リベラルアーツ研究教育院教授) 「利他」…このプロジェクトが始まってから、ずっと「利他」とは何か考えているんです。「利他」というのは、文字通りですと「他を利する」ということなんですけども、どこか違うんじゃないかと感じているんです。従来の「利他」の定義だけではとても表面的で、ある意味では記号的な「利他」でしかない。今問われている「利他」は、意味論的にいうと、「自他」の区別がなくなるところに始まる「利他」ではないかと考えているんです。つまり、人のために何かやっているのではなく、「自らを含む何か」のために行っているという自覚が生まれてくるとき、そこに「利他」が起こると思うんです。

 むしろ、自分が含まれない行いは一見「利他」に見えるんだけど、とても恐ろしいことをやっている場合がある。「人に何かを恵む」なんていうのは、一見すると良さそうなんですけどね、福祉の専門家に聞けばわかりますけど、それは必ずしもよいことばかりではない。

 私たちが予想するのとはちょっと違う結果を生むこともある。さらにいえば、自分が含まれるような営みでは、何も起こらないんじゃないか、と思うんです。利他の「他」っていうものを、自己を含めた「他」、あるいは、自己を深みから照らし出すような「他」に、定義し直していかなくてはならない、と思ってるんです。

 20世紀の哲学の中で「他者論」はとても重要なテーマです。しかし、従来の他者論の定義も東洋哲学との対話のなかで変わっていかなくてはいけないのではないか。ここでの利他学が、その小さな始まりになればと願っています。

中島 そうですね。利他的に振る舞おうとすることってすごく利己的だったりしますよね。その逆説が利他にはつねにあって、ここをどう考えるのか。

 「利他」の研究をやっていこうとなったときに、いちばん最初に伊藤さんが、「利他っていうの、ちょっと違和感があるんですよね」とおっしゃった。利他的に、一方的に、たとえば障害を持った人に対して「施し」をする、いうようなことが、つねにこの二分法を構造的にくり返してしまう。「利他的なろうとする人」と「その恩恵を受ける人」みたいなものが、世界をブレイクスルーするようには思えない、と。どういうふうに「双方向的な利他の世界」というものが生まれてくるのかが重要だ、というのも入り口のところに1つあったと思うんですね。

 磯﨑さんは小説家、あるいは実作家として作品を書いて来られた方ですけれども、この辺り、磯崎さんの問題で言うと「自意識」というものと関わってくるのかな、と思ったりします。この「利他」について、どういうふうにお考えですか。

磯﨑(東京工業大学 科学技術創成研究院/リベラルアーツ研究教育院教授) 僕は若い頃は利他的ではなくむしろ利己的だったかもしれないですね(笑)。利己なのかはわからないですけれども、自己実現は好きでしたね。ところが健全に老いてくると──この「健全」っていう言葉がまた問題なんですけど──ちゃんと「利他」になってくる、そうした変化が人生の実感としてあります。

 僕の場合は三十代で子どもを持ったという経験が大きかったのかなと思います。自分の肉体の外側に、自分以上に大切な存在が生まれるということなんですけれども、それが子どもである必要はないんです。配偶者であってもいいし、動物であってもいいし、友人であってもいい。

磯﨑憲一郎さん

 人間は普通に生きていれば、自分が生まれる前からこの世界は存在していたし、自分が死んでいなくなった後もこの世界は存続し続ける、ということを、結局どこかでちゃんと受け入れる用意ができて来るんだと思う。その事実を受け入れるってことが、実は自然に「利他」というものに移行していく、という変化なんじゃないかなと思っています。

 どんなに利己的な人でも、間違いなくその人、死にますから。どんな人でもいつかは存在しなくなるということを考えると、厳密な意味では利他的でない人間というのは存在し得ないはずなんです。時間の問題なのか、存在論的な問題なのか、そこは難しいとこなんですけど、たぶんそういう事実をどんどん受け入れていくということが、歳をとるってことなんじゃないかな、っていうのが実感です。

中島 なるほど。伊藤さんが最近『群像』という雑誌の2月号に、「コミュニケーションと輪郭」という文章を書いていらっしゃって、これは最初に伊藤さんが「利他ってちょっと違和感がある」とおっしゃったことと、非常に密着しているものだと思いました。

 そこで伊藤さんがおっしゃっているのは、「伝達モード」と「生成モード」というのを、コミュニケーションのあり方として分けて考えた方がいい、ということです。「伝達モード」っていうのは、一方から他者に対して一方通行的に何かを伝える、というもので、「生成モード」っていうのは、相互関係によって何かが浮かび上がってくるものですね。ここも「利他」と関係しそうです。

伊藤 そうですね、さっき若松さんが「他者」「他人」ということを再定義しないと、というふうにおっしゃってたんですけど、西洋哲学だと「他者」とか「人間」ってやっぱり「健常者」が想定されている。そこで前提にされているのは「眼差し」っていうものをベースにした、自分と他者の関係なんです。

 でもそれって、眼差しを持たない視覚障害者は最初から排除していますし、つねに介助が必要でいつも他人と密着する必要がある人は、目を合わせるような距離が取れません。だから眼差しをベースにした他者論というのは、たくさんある「自他」の関係の1個でしかないと思うんですよね。

 最近考えているのは、「眼差し」ではなく「手触り」をベースにした自他関係です。他人の体に触れるということから、他者を論じられないかなと思っています。

 人の身体に失礼でない仕方で触れるってすごく難しいことですよね。その方法論を我々はほぼ持っていないと思うんですけど、その「持ってなさ」が、障害者と関わることの難しさとか、一方的に自分の正義を押し付けるような「伝達系」の関わりになっちゃってる原因のような気がして。

 人の身体にうまく触れるときに、何がそこで起こっているのか、ということを通して倫理をもう一回考えたいな、と思っています。そこには「伝達」じゃなくて「生成」、その関係の中で生まれていくメッセージを拾い合うような、生成的な関係というのがあるはずです。

「勤勉」でなく「真摯」な状態で

中島 雑談というのは一種の「生成モード」ですよね。一方的に自分の言いたいことを言うのではなくて、相手から出てきたものに対して、そこで「ああ、俺はこんなことを考えてんのか」というふうに自分と出会ったりすることもあります。関係性の中で言葉が生まれていく。

 漢字で書く「言葉」、意味の世界を超えて、カタカナの「コトバ」の世界がある。その「コトバ」は音だったり匂いだったりするかもしれない、というのが井筒俊彦(言語学者 1914-1993)の世界だったと思うんですけども、「生成モード」というのはここにも関連があるかもしれません。若松さんはこの辺りいかがですか。

若松 大学の教員になってまだ日が浅いのですが、最初に感じた違和感は、伊藤さんがおっしゃった「伝達モード」に規定されているという実感でした。聞く方からからも「伝達モードでお願いします」というのを感じたんです。

 私はそもそも、伝達モードでしゃべった経験がほとんどないので、自分にそのモードの機能が欠落している、ということに気づくのに1年かかりました。今日まで「なんかおかしいな」と思い続けていたわけです(笑)。でも今お話しいただいて、氷解しました。

 それで分からないながらも、大学では、まずお互いの環境を壊すことから始めたわけです。「教師が学生に教える、というような関係の場は受験勉強までで君たちはもうそこを卒業してきた。だから、ここではお互いに学び合う“場”を作りたい」と言ったんです。

 「僕も準備するから、みんなも準備して来てほしい。それはとにかく学ぶことにおいて真面目であることなんだ。真面目っていうのは、勤勉じゃなくていいから、真摯な状態で来てほしい」ということだけお願いしたら、だんだん生徒が減っていくんです(笑)。

 でも、それでもきてくれる学生たちとは、やはりとてもいい“場”ができるんです。真摯さという心情が共通理解の場になると、伝達モードが崩れてくるんです。こういうと叱られるかもしれませんが、シラバスは瞬く間に創造的に解体し、変化して行きます。

 すると同時に今おっしゃっていただいたように、「自他」の関係も面白いくらいに変わってくる。授業が終わると、私の方が「勉強になった!」って感じになる。もしかして、自分がいちばんよく学んだんじゃないか(笑)、という実感を最近楽しんでいます。

 教師には「自分が教える」という意気込みが多少なりともあると思うんです。でも、もしかしたらそれも、学内における「他者の関係」を固めてきてしまった原因の一つなんじゃないか、という感じはします。

若松英輔さん

 あともう一つ、磯﨑さんがお話ししてくださった、人間は年老いていくと利他になる、というのがとても印象的で、ここには、「人生の後半」という問題があると思うんです。「人生の後半」は歳をとっていけば始まる、というのが社会的には一応の目安になっていますが、じつはあまり年齢に関係ない。

 あるとき大学でアスペルガーと診断された、という学生が質問に来たんです。授業中はつまらなそうにしている。でも、授業が終わってからの質問は、文字通り真剣勝負なんです。そういう人は、明らかに「人生の後半」が早く始まっているのが分かります。実際は二十歳前後なんですけど、私なんかよりもずっと深く世界を感じ、自分の世界を構築する必然に迫られている、「人生の後半」を早く始めなくてはならない若者にも、「利他」というテーマはとても重要である感じがします。

たまたまそうであるに過ぎない──という想像力

中島 世の中はむしろアンチエイジングとか、若くあることに価値を置こうとするんですけど、「年老いていくことにおける価値」みたいなもの、あるいは「死んだあとの価値」といったいろいろなものが想像できなくなっている、ということもあるかもしれません。

 磯﨑さんの文学では、大きな「歴史」というものを観念の中に置きながら、時折「文学のために」小説というものが成立している、と思うんですけれども、年齢を重ねてきて、小説の見方が変わってきたところはあるんですか。

磯﨑 やっぱり「人間、死んでからが人生」ですからね。その感じは強いですね。結局、多くの人の支持を得るとか、金持ちになるとか──功利主義に結びつくところなのかもしれないんですけど──そういうこととは違う価値というのが、死後始まる。今実際に小説を書いている僕らにとって、同時代の作家よりもむしろ、カフカやムージルといった20世紀のはじめの小説家、死者である小説家たちの言葉の方が、はるかにリアルに感じられるというのが、その証明にほかならないような気がしてならない。

 たぶん、こういう僕らの話を聞いている人たちが、「大学の先生の集まりだから、何か高邁な理想を話してるな…」というふうに誤解されるのが僕はいちばん嫌だね。そういうことじゃないんだよね。何かもっと実感というか、肌感覚に近いというか…何て言えばいいんですか、中島さん。

中島 僕はアカデミックな哲学体系の構築に興味はなく、たとえばこのプロジェクトの中で落語とか、庶民が持ってきたようなある感性、言語化されないようなものを射程に入れながら考えたいな、と思っているんですね。亡くなった人との対話が深まるというのは、案外知の闇みたいなところなので、西洋哲学ではあまり論じきれなかったところだと思うんですよ。

 あるいは、「偶然」という問題もそうですね。これは伊藤さんが前に出してくださった大きなテーマなんですけれども、西洋哲学は合理的に解消できない問題を知の闇に追いやってきた。けれども、その知の闇のところに実はとても重要な叡智がたくさんあると思うんです。

 利他の問題というのは「偶然性」がすごく大きいですよね。今、どうしても自己責任社会になっていて、「俺は頑張ったんだから」といったことが蔓延しています。そんな自分は、偶然性によるものである──たまたまそうであるに過ぎない──という想像力が、自分以外の人たちに対する共感や協同につながっていくと思います。

中島岳志さん

 西洋は必然性や合理的なものばかりを追いかけてきたけれども、「偶然」とか「死者」とか、何かそこでは論じきれなかったものの中に大切なものがあるんじゃないか、という手触りはありますよね。

 「偶然」ということを伊藤さんがおっしゃったときに、何か工学的な世界との対比で議論されていたと思うんですけども。

理系の視点で「利他」を考える

伊藤 そうですね。工学の根底にある欲望はやはり「制御」だと思うんです。学生と話していても、とてもシステマティックにものを考える傾向を感じます。でも、私が吃音を通して制御の問題を考えるなかで見えてきたのは、制御しようとすればするほど制御される、ということなんですよね。制御にのっとられちゃう。ならば最初から「偶然」に対して門戸を開くような発想はありえないのかな、と思います。

 それに加えて私がこのセンターですごく楽しみだなと思っているのは、人間の死んだあととか、語られていない部分みたいなレベルの話を、理工系の中で考えられるということです。文系になくて理工系にあることというのは、スケーラビリティというか、ものすごくミクロなところからものすごく大きなところまで扱っている、というところです。人文系は「人間」とか「社会」のレベルで考えるのが得意ですが、理系は、よい意味で「人間」を外して考える視点を与えてくれます。

 たとえば細胞レベルでも「利他」はおそらくあって、たとえばリン・マーギュリスが唱えた「細胞内共生説」によれば、細胞内にあるミトコンドリアや葉緑体という組織は、最初はまったく別の生物だったんです。その証拠に、ミトコンドリアや葉緑体は、本体のとは違う、独自のDNAを持っている。進化とはそういうもので、他の生き物と共生して混じり合いながら、新しい種が生まれてくる、と。我々の生命そのものが、自分と自分でないものを区別できないようなところに成立しているという、そういう「偶然」によって作られている。

 これはミクロのレベルの話ですが、人類が絶滅したあとどうするのか、あるいは太陽系の外部にいるかもしれない生物とどのような関係を結ぶのか、ものすごく大きなレベルまで利他の問題を拡張できるかもしれない。理系の研究者と関わることで、こうやってスケールをいろいろ変えながら「利他」という問題を考えていきたいと考えています。

磯﨑 今、伊藤先生の話を聞いて思い出したんですけど、『記憶と生』(アンリ・ベルクソン著、ジル・ドゥルーズ編)っていう本があるじゃない? そこに書かれていたことなのだけど、最初期の生命、最も初期のアメーバ段階の生命が生き延びるためには、2つの選択肢があった、と。

 一つの生命が他の生命を食べ尽くしながら、その個体が最大限長生きするというのが選択肢1で、自分は死滅する代わりにその子孫、別の存在を連綿と残していく、というのが選択肢2。結局、第2の選択肢が選ばれたから、現在に至るまで生命の歴史が続いてるんだ、っていうようなことを、たしかベルクソンが書いてたような気がするんだけど、第2の選択肢を選んだ、というその判断こそ「利他」だよね。

伊藤 『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス著、Oxford University Press、1976年)も結局「利他」の話なんですよね。「利他的」にすることが「利己的」である。「利己的」にすることが「利他的」である。さっきの区別が1つになるっていう。

中島 そうなんですよね。「偶然」という話もまったく同じだと思うのは、九鬼周造という人が『偶然性の問題』(岩波書店、1935年)という本を書いていて、結局偶然とは必然である、という結論になるんですよね。これが非常に面白いところで、普通これは、逆の、対立していることに思えるんですけども、九鬼の言葉で言うと「偶然は絶対者の中にある他在である」。これはとても重要で、今の問題ともたぶん構造的には関わっていると思うんです。だから「利他」というものの在り処を探っていくと、1つの構造に出会っていくのかな、というふうに思ったりします。

 自然科学とか理工系の学問と我々は、そういうところからアプローチしたり架け橋をしたりするのが、これからとても重要かなと思っています。

 植物学者の牧野富太郎は、とにかく植物が好きで徹底した分類学をやっていった人なんですが、その分類をしている標本画が、ものすごく美しいんですよね。江戸の花鳥画みたいなもので、つまりその細部を描くことによって生命の本質を掴もうとしているっていうんですかね。平仮名の「いのち」としか言いようがないものを、彼は掴もうとしてる。非常に優れた理系の研究者っていうのは、ここで議論しようとしているような問題に極めてダイレクトに突き刺しているような人たちなんじゃないかな、と思うんですよね。

若松 今の環境ですと不可避的に理系の人たちと多く接します。あるとき、はっきりと分かったのは、やっていないことを嫌ってる学生が少なくない、ということなんです。やっていないだけだから、やれば、好きになる。

 今、一年生には詩の授業をやっています。中には、これまで教科書以外に詩を読んだことがないのに、さきほどの理由から、少人数になった、とても濃厚なクラスに迷いこんでくる学生がいる。もちろん、最初はいろんなことがぎこちない。しかし、授業が終わるころになると、今まで眠っていた「内なる詩人」が目覚めるのがはっきりと分かります。ここでまでくれば……。

 こうした、有機的な変化は、今の若い子も第一級の研究者にも同様に起こると思うんです。科学による精緻なものに、私たちが持っているような──たとえば「美」ですよね。そういうものが合わさったときに、何かとてつもないことが起こる予感があります。誰も想像し得なかったような何かが起こる。そうすると、今日ずっと話している「利他」の逆転みたいなことが起こってくるんだと思うんですよね。

 「利他学」っていうのはもしあるとすれば、我々が今考えている常識そのものが覆るっていうところまで来ないと、面白くない。常識を延長する、あるいは拡張するのではなくて、ひっくり返すところまでいきたい……。

『「利他」を考える~東工大「未来の人類研究センター」の挑戦(下)』につづきます。