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「利他」を考える~東工大「未来の人類研究センター」の挑戦(上)

中島岳志 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

「利他」というアプローチ

中島 そうですよね。我々のアカデミズムの世界では、「この研究によってどういう結論が得られるか」「どういう風に研究していくか」という計画を、かなり前もって設定をして、それで研究をしていく、ということが要求されることが多いんですけども、それが逆にクリエイティビティ、創造性を失わせることになっているかもしれない。

 むしろ統御できないものとか、他者との応答の中で生まれてくるものとか、そういうものに開いていきたい。そういうことがあって、あまり最初にガチガチにこういうことをやるんですよ、というふうに決めないでやっていく、というのもここの1つの特徴なのかな、と思います。

 そんな中で、最初に取り組もうとしているのが、「利他」っていう問題です。

 利己的な「エゴイズム」みたいなものの逆として「利他主義」が取り上げられたりもしますね。我々はこの「利他」っていうことについて考えていきたいと思っているんですけども、「利他」について、若松さんはどういうアプローチをお考えでしょうか。

若松(東京工業大学 科学技術創成研究院/リベラルアーツ研究教育院教授) 「利他」…このプロジェクトが始まってから、ずっと「利他」とは何か考えているんです。「利他」というのは、文字通りですと「他を利する」ということなんですけども、どこか違うんじゃないかと感じているんです。従来の「利他」の定義だけではとても表面的で、ある意味では記号的な「利他」でしかない。今問われている「利他」は、意味論的にいうと、「自他」の区別がなくなるところに始まる「利他」ではないかと考えているんです。つまり、人のために何かやっているのではなく、「自らを含む何か」のために行っているという自覚が生まれてくるとき、そこに「利他」が起こると思うんです。

 むしろ、自分が含まれない行いは一見「利他」に見えるんだけど、とても恐ろしいことをやっている場合がある。「人に何かを恵む」なんていうのは、一見すると良さそうなんですけどね、福祉の専門家に聞けばわかりますけど、それは必ずしもよいことばかりではない。

 私たちが予想するのとはちょっと違う結果を生むこともある。さらにいえば、自分が含まれるような営みでは、何も起こらないんじゃないか、と思うんです。利他の「他」っていうものを、自己を含めた「他」、あるいは、自己を深みから照らし出すような「他」に、定義し直していかなくてはならない、と思ってるんです。

 20世紀の哲学の中で「他者論」はとても重要なテーマです。しかし、従来の他者論の定義も東洋哲学との対話のなかで変わっていかなくてはいけないのではないか。ここでの利他学が、その小さな始まりになればと願っています。

中島 そうですね。利他的に振る舞おうとすることってすごく利己的だったりしますよね。その逆説が利他にはつねにあって、ここをどう考えるのか。

 「利他」の研究をやっていこうとなったときに、いちばん最初に伊藤さんが、「利他っていうの、ちょっと違和感があるんですよね」とおっしゃった。利他的に、一方的に、たとえば障害を持った人に対して「施し」をする、いうようなことが、つねにこの二分法を構造的にくり返してしまう。「利他的なろうとする人」と「その恩恵を受ける人」みたいなものが、世界をブレイクスルーするようには思えない、と。どういうふうに「双方向的な利他の世界」というものが生まれてくるのかが重要だ、というのも入り口のところに1つあったと思うんですね。

 磯﨑さんは小説家、あるいは実作家として作品を書いて来られた方ですけれども、この辺り、磯崎さんの問題で言うと「自意識」というものと関わってくるのかな、と思ったりします。この「利他」について、どういうふうにお考えですか。

磯﨑(東京工業大学 科学技術創成研究院/リベラルアーツ研究教育院教授) 僕は若い頃は利他的ではなくむしろ利己的だったかもしれないですね(笑)。利己なのかはわからないですけれども、自己実現は好きでしたね。ところが健全に老いてくると──この「健全」っていう言葉がまた問題なんですけど──ちゃんと「利他」になってくる、そうした変化が人生の実感としてあります。

 僕の場合は三十代で子どもを持ったという経験が大きかったのかなと思います。自分の肉体の外側に、自分以上に大切な存在が生まれるということなんですけれども、それが子どもである必要はないんです。配偶者であってもいいし、動物であってもいいし、友人であってもいい。

拡大磯﨑憲一郎さん

 人間は普通に生きていれば、自分が生まれる前からこの世界は存在していたし、自分が死んでいなくなった後もこの世界は存続し続ける、ということを、結局どこかでちゃんと受け入れる用意ができて来るんだと思う。その事実を受け入れるってことが、実は自然に「利他」というものに移行していく、という変化なんじゃないかなと思っています。

 どんなに利己的な人でも、間違いなくその人、死にますから。どんな人でもいつかは存在しなくなるということを考えると、厳密な意味では利他的でない人間というのは存在し得ないはずなんです。時間の問題なのか、存在論的な問題なのか、そこは難しいとこなんですけど、たぶんそういう事実をどんどん受け入れていくということが、歳をとるってことなんじゃないかな、っていうのが実感です。

中島 なるほど。伊藤さんが最近『群像』という雑誌の2月号に、「コミュニケーションと輪郭」という文章を書いていらっしゃって、これは最初に伊藤さんが「利他ってちょっと違和感がある」とおっしゃったことと、非常に密着しているものだと思いました。

 そこで伊藤さんがおっしゃっているのは、「伝達モード」と「生成モード」というのを、コミュニケーションのあり方として分けて考えた方がいい、ということです。「伝達モード」っていうのは、一方から他者に対して一方通行的に何かを伝える、というもので、「生成モード」っていうのは、相互関係によって何かが浮かび上がってくるものですね。ここも「利他」と関係しそうです。

伊藤 そうですね、さっき若松さんが「他者」「他人」ということを再定義しないと、というふうにおっしゃってたんですけど、西洋哲学だと「他者」とか「人間」ってやっぱり「健常者」が想定されている。そこで前提にされているのは「眼差し」っていうものをベースにした、自分と他者の関係なんです。

 でもそれって、眼差しを持たない視覚障害者は最初から排除していますし、つねに介助が必要でいつも他人と密着する必要がある人は、目を合わせるような距離が取れません。だから眼差しをベースにした他者論というのは、たくさんある「自他」の関係の1個でしかないと思うんですよね。

 最近考えているのは、「眼差し」ではなく「手触り」をベースにした自他関係です。他人の体に触れるということから、他者を論じられないかなと思っています。

 人の身体に失礼でない仕方で触れるってすごく難しいことですよね。その方法論を我々はほぼ持っていないと思うんですけど、その「持ってなさ」が、障害者と関わることの難しさとか、一方的に自分の正義を押し付けるような「伝達系」の関わりになっちゃってる原因のような気がして。

 人の身体にうまく触れるときに、何がそこで起こっているのか、ということを通して倫理をもう一回考えたいな、と思っています。そこには「伝達」じゃなくて「生成」、その関係の中で生まれていくメッセージを拾い合うような、生成的な関係というのがあるはずです。

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筆者

中島岳志

中島岳志(なかじま・たけし) 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

1975年、大阪生まれ。大阪外国語大学でヒンディー語を専攻。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科でインド政治を研究し、2002年に『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ)を出版。また、近代における日本とアジアの関わりを研究し、2005年『中村屋のボース』(白水社)を出版。大仏次郎論壇賞、アジア太平洋賞大賞を受賞する。学術博士(地域研究)。著書に『ナショナリズムと宗教』(春風社)、『パール判事』(白水社)、『秋葉原事件』(朝日新聞出版)、『「リベラル保守」宣言』(新潮社)、『血盟団事件』(文藝春秋)、『岩波茂雄』(岩波書店)、『アジア主義』(潮出版)、『下中彌三郎』(平凡社)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)、『保守と立憲』(スタンドブックス)、『超国家主義』(筑摩書房)などがある。北海道大学大学院法学研究科准教授を経て、現在、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。

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