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「利他」を考える~東工大「未来の人類研究センター」の挑戦(下)

中島岳志 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

過去がないという「自由」

伊藤 でもなんかちょっとそれ、違う視点もある気がして。私は認知症の研究をしたいんですが、彼らは忘れちゃうんですよね。そうすると彼らは大福ってたぶんわからなくて、毎日同じ景色を見ても毎日違うふうに見えるわけですよ。

 概念とか言葉っていうのは、まったく違うものを同一化して、違う大福なのに「大福」という同じものとして認識させるわけじゃないですか。その差異を消していくんだけど、認知症になるとよくも悪くもすべてが新鮮になってしまい、毎日見ている山が、山って思えなくなったりする。ただ、あいつがある、という感じでまとめられない。同一性っていう乱暴な社会的ルールに乗っかれない。

磯﨑 そうしたら僕らには、大福を見てもそれが何なんかわからない人がいた、というものとしての大福が入ってくるわけじゃない。

伊藤 そうですね。だから過去の経験値から逆算しないで行為をする、というのがどういう感覚なのかを私は認知症の人に学びたくて、我々はさっきの「仮」じゃないですけど、すごく判断しちゃってるんですよ、なんだかんだと過去から。認知症の人と接していると、「そんな人だったの!」みたいなことがすごく起こるんですよね。家族や周囲の人は、そのことに「人が変わった」ととまどったりもするのですが、別に見方をすれば、ものすごいジャンプができるともいえる。これが自分のキャラだ、とか、過去にこれをやったからこれができるかも、といった判断なしに、いきなりすべてが現在、この(図1の円錐)頂点しかない、というようなことができてしまう人の、時間感覚を学びたい。

磯﨑 それはやっぱり「自由」ってことなのかな。過去がないってことは。

中島 そうですね。Prejudiceという言葉は、二面的だと思うんですよね。prejudiceは一方において「偏見」だと思うんですけども、「あらかじめ決められたこと」なので「良識」なんかもそこに入っていて、私たちの認識っていうのは、「だいたいこういうものだ。」というprejudiceによって成り立っているわけですよね。年上の人に「お前」って言っちゃおかしい、というのはprejudiceだと思うんですけども、認知症というのは、それが欠如することによって、ある意味で偏見までがない状態のなか、世界と接しているわけですよね。そこが逆説的に私たちに照らし出すものは、とても面白いと思うんです。

伊藤 会話が飛ぶ、ということにも興味があるんですけど、過去を切ってしまうことである種のprejudiceがない、その都度途切れてしまう、というところに、実は創造性があるような気もするんです。メンバーの國分さんも言っている「晩年様式」ですよね。ベートーベンとかのめちゃめちゃ転調していく感じ。そこを探っていくと、そっちにも何か別の「利他」があるような気がしています。

「生命」とは異なる「いのち」がある

若松 先日、大学で遺伝子組み換えの専門家と授業をしたんです。その人物は、とても優れた研究者で、「生命がこんなに今進化している。今まで治らなかった病気が治るんだ」という話をしていた。いっぽう、私は「生命」とは異なる「いのち」と呼ばれるものがあるのではないか、という話をした。

 その研究者は、とても勇気のある人で、今後、国家予算では「生命」を十分にケアできない時代になる、というのです。それがよい、というのではなく、それが現実だというんです。もちろん、この国も例外ではありません。いずれ、技術的には可能だけれども、この治療は、基本的には行わない、というような決断をどこかで下さなきゃいけなくなる。もちろん、理由は、医療費の桁はずれな高騰なんです。

 たとえば、ある疾病に対して、かつては30万円程度だった薬が、今は3000万円というようものがある。技術は進化したんですが、それをすべての人のために国家が背負うというのがきわめて難しくなっている。こうなると、ケアするにふさわしい「生命」に予算を割く、ということになる。冷淡に聞こえますが、実際に大きな問題として私たちの眼前にあるわけです。

 ここで考えてみたいのは、「生命」と「いのち」は同義か否か、という問題です。このままだと生産性の高い「生命」にはより予算を割き、そうでないものには縮小する、ということになる。

 でもそれはどこまでも「生命」の論理なんです。そして、この発想は、とてつもなく大きな危険をはらんでいることも、私たちは歴史的にも知っている。ナチス・ドイツはこれを徹底したわけです。

 しかし、「いのち」からすると、まったく違う論理になる。「生命」からいくと、やはり生産性に基づいて判断していかざるを得ない。それはわかります。でも「生命」の生産性とはまったく異なる、「いのち」における生産性っていうのがあると思うのです。「いのち」はお金を生まない。しかし、意味を生む。この世界を深みで支えているのは、「意味」だと思うのです。それを無視して、感覚的価値に置き換えると大きな過ちを犯すと思うのです。

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 30代のはじめまでは、介護製品の営業マンでした。毎日、広い意味での「顧客」として、認知症の人とずっと付き合ってきたわけなんです。その日々で実感を深めたのは、やっぱり「いのち」の意味なんです。

 人は普通、社会で暮らしていると、身体的社会と心理的社会とのはざまで生きているわけです。つまり「いのち」的社会というのを封印している。でも、「利他」という出来事が起きるときには、その境域が創造的に解体するときだと思うんです。プラトンの言葉を借りれば、「いのち」の火花と呼ぶべき何かが立ちあがることだと思うんです……。「利他」っていうのは真の意味での「出来事」なのではないか。意図的には起こせない何かではないかと思うんです。

 さっき言ったような「老い」という問題も、「身体」から見ると、だんだん欠落していくことなんですよ。でも「いのち」から見ると、まったく異なる実感がある。

 私的な経験ですが、自分の近しい人が死んでいくときに、これまででもっとも「完全な姿をしている」と思いました。こんな完全な姿は見たことがない、というのが、私の死の経験なんです。

磯﨑 それは先ほど中島さんが言った「西洋哲学では切り取りきれない部分」なのかもしれないんだけど、そこはやっぱり宗教が救ってきたってことなのかな。

若松 そうかもしれませんが、私が言った完全性の経験は、宗教とはまったく関係ないようにも思います。

伊藤 どういう感じですか。

若松 現代日本に広がる「生産性の原理」に対して「存在の原理」があるんです。「存在の原理」から見ると人間は死に近づいていくほど完全になっていく。もっとも力強くなっていくとすらいえるのかもしれません。

磯﨑 晩年の小島信夫(小説家・評論家 1915-2006)とか、岡本太郎(芸術家 1911-1996)とかも、ボケてからが完成された作品なのかもしれない。

若松 私は自分の近しい人の死を見て、初めて死にゆくキリストが完全だというのがわかったんです。生後40日で洗礼を受けたのですが、キリストという存在が本当は分かっていなかった。でも、厄年を超える年齢になり、自分の近しい人の死を見て、十字架で死んでいくイエスこそが完全だ、ということが実感できたんです。

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筆者

中島岳志

中島岳志(なかじま・たけし) 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

1975年、大阪生まれ。大阪外国語大学でヒンディー語を専攻。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科でインド政治を研究し、2002年に『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ)を出版。また、近代における日本とアジアの関わりを研究し、2005年『中村屋のボース』(白水社)を出版。大仏次郎論壇賞、アジア太平洋賞大賞を受賞する。学術博士(地域研究)。著書に『ナショナリズムと宗教』(春風社)、『パール判事』(白水社)、『秋葉原事件』(朝日新聞出版)、『「リベラル保守」宣言』(新潮社)、『血盟団事件』(文藝春秋)、『岩波茂雄』(岩波書店)、『アジア主義』(潮出版)、『下中彌三郎』(平凡社)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)、『保守と立憲』(スタンドブックス)、『超国家主義』(筑摩書房)などがある。北海道大学大学院法学研究科准教授を経て、現在、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。

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