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「利他」を考える~東工大「未来の人類研究センター」の挑戦(下)

中島岳志 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

東京工業大学に発足した「未来の人類研究センター」。自己責任論が蔓延する現代の社会において、この新しい研究センターは世界にどんなことを投げかけるのか。『「利他」を考える~東工大「未来の人類研究センター」の挑戦(上)』に続いてセンターのメンバー4人が語る。
伊藤亜紗(センター長・美学者)
中島岳志(利他プロジェクトリーダー・政治学者)
若松英輔(批評家・随筆家)
磯﨑憲一郎(小説家)

中島 この「利他学」というか「利他主義」みたいなもの──英語でaltruism ですね。調べていくと、これは19世紀に生まれた概念で、社会学者のコントが作った造語らしいんです。これはエゴイズム(egoism)の反対語として定義した、というのが原理にあり、そしてこのaltruismの研究というのは、その多くが宗教研究だったんですね。「隣人愛」のようなものをどう立証的に見ていくのか、という宗教研究、とくにキリスト教研究が中心だった。あるいはそこからボランティアがどう生まれてくるのか、という宗教社会学的な、そういう研究のアプローチが概ねなんです。

 けれども、おそらく私たちが射程に入れたいのは、そういう狭い意味での宗教研究ではなくて、もちろん宗教は重要な柱だと思いますが、もっと広い「利他」の構造というんですかね。人間の在り方、未来の人類のまさに「在り方」みたいなものを射程に入れながら、文理を超えて、しかも結論を急ぎ過ぎず、雑談を重んじながら、生成的コミュニケーションによってやっていこうという、そんなイメージかな、というふうに思ったりしています。

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磯﨑 僕らはつねに「利他」を意識して原稿の一行を書いているわけではないじゃない? たぶん羽生さん(羽生善治・棋士)なんかもそうで、対局の次の一手で、今まで指したことのないような一手を指すときも、本当にその対局の中で、勝つために最善と思われる一手を指すと、それが結果的に将棋の歴史に資する画期的な一手となり、自分の死後においても将棋という1つの様式を進化させるような何かになっていくんだと思う。

 その一行とか一手っていうのは、最初に言ってた「雑談」とも通じるのだけども、結果的にあのときこういう会話があったから今こういう会話になっている、というようなものっていうのは、いずれここで役に立つだろう、といった打算の下に行われたわけではないですよね。

 さっき「高邁なものではないんだ」って言ったのも、何か高邁な理念を打ち出したい下心があるわけではなくて、先日の町田康さんと若松さんの対談でもあったように、「本気」であることが結果的に「利他」に結びついていく、というようなものなんだよね。

「直感」は自己の所有物ではない

若松 わたしたちの日常と将棋がいちばん違うのは、将棋には「仮」がない、要は「仮の手」がないことだと思うんです。指し直しはありません。それをやってしまったら、その将棋は終わりです……。

 でも今のこの世界は、Twitterで文章を消せて、なんでも訂正ができ、政治の世界でも、日々言葉が撤回されている。全部「仮」なんですよ。将棋は「仮」がない。もう勝負がつく。「利他」も「仮」のない場所でしか起こらないと思うんです。

 今、磯﨑さんがおっしゃったのは、本当にその通りですよね。最善手を打てれば将棋の歴史が変わる、それこそ「利他」の現場なんだと思います。

磯﨑 結果的にたとえば将棋で言ったら、負けてもいいわけじゃないですか。負けてもいいんだけども、それでも何か将棋の歴史に資する一手っていうのは、勝ち負けではないところで指される。

中島 羽生さんが書いていたのは、やはり実践において重要なのは「読み」だけでなく、「大局観」と「直感」で、これは自己の所有物ではない、って言うんですよね。つまり「直感」というのは、ものすごく膨大な死者たちの積み重ねの上に、自分が「経験」という上塗りをした中で生まれてくるものであって、「直感」は単独で「直感」ではない、って言うんですよ。まず「直感」で、何百手かあるうちの2、3に絞っている、つまり、過去から押す力によってこの絞り込みがなされている。そのあとは「読み」だ、と。この「読み」「大局観」「直感」によって自分は指しているので、大半が後ろから来る力ですよ、というようなことを書いているんですね。

 その後ろから来る力に促されて指し、そのことによって未来にむけて現在を押していくのが自分の役割である、というのが羽生さんの「指す」という行為なんだと思います。

拡大図1
磯﨑 まさしく中島さんが言った通りで、ベルクソンって、膨大な過去が一点に収斂するというこの図(図1参照)の──たとえば、今テーブルの上にある「大福」を僕らが見たときに、僕らは大福という個を見てるんじゃなくて、膨大な過去の大福の蓄積を一点に見ているわけですよね。今まで自分が食べてきたことから、自分が知っている限り、もしくは知らないところまで含めての大福の歴史が、今日食べた大福の一点に収斂するわけじゃない? その大福が羽生さんの一手なんだよね。

 言葉も全部そうなんですよ。結局自分の記憶ではないことも含めて、すべてがその一点に収斂していく、という意味において、「雑談」はこの(図1の円錐の)中にある、ということなんだよね、たぶんね。

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筆者

中島岳志

中島岳志(なかじま・たけし) 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

1975年、大阪生まれ。大阪外国語大学でヒンディー語を専攻。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科でインド政治を研究し、2002年に『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ)を出版。また、近代における日本とアジアの関わりを研究し、2005年『中村屋のボース』(白水社)を出版。大仏次郎論壇賞、アジア太平洋賞大賞を受賞する。学術博士(地域研究)。著書に『ナショナリズムと宗教』(春風社)、『パール判事』(白水社)、『秋葉原事件』(朝日新聞出版)、『「リベラル保守」宣言』(新潮社)、『血盟団事件』(文藝春秋)、『岩波茂雄』(岩波書店)、『アジア主義』(潮出版)、『下中彌三郎』(平凡社)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)、『保守と立憲』(スタンドブックス)、『超国家主義』(筑摩書房)などがある。北海道大学大学院法学研究科准教授を経て、現在、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。

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