コロナ禍は安倍内閣の人災だ~「春節訪日熱烈歓迎」動画の舞台裏
中国国民訪日を熱烈歓迎、海に浮かぶ培養皿…。素人でもわかる過ちをなぜ繰り返すのか
佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長
アルベール・カミュの小説『ペスト』が売れに売れている。
凶悪な感染症ペストに襲われたアルジェリアの架空都市を舞台に、医師リウーや新聞記者ランベールなど一群の人間群が織りなす行動と思弁のドラマだ。
はるか昔の学生時代に読んだきりでディテールは覚えていないが、小説の導入部で一人の老人が登場する。
老人は、窓の下に集まって来る猫に唾を命中させる遊びを習慣としている。ところが、ある日、集まって来るはずの猫が一匹も現れず老人を失望させる。人知れぬペストの襲来が猫の習慣を変えたのだ。
学生時代に小説家を志望していた私が、数年後に小説『コロナ』を書くとしたら、冒頭は次のように書き始めるだろう。
情熱的なその男は、人知れぬ葛藤に胸を痛めていた。自身の情熱の拠って来たる使命感とプレスやSNSなどが醸し出す「世論の声」との間に、かつてなく大きい間隙が生じ、激しい葛藤の痛みを感じざるをえなくなったからだ。
その男、安倍晋三首相の大きい情熱の炎は、「東洋の奇跡」とも呼ばれ、世界の大国ロシアをも打ち負かした明治維新以来の「アジアの盟主」日本国を現代に再興することだった。晋三は他人には決して口外しなかったが、そこには祖父の岸信介が折ある毎に晋三に口伝えしていた長州人の血脈が自身の内部を脈々と流れ伝っていることを感じていた。
晋三が戦後の憲法を変えようと焦燥感を感じるのも、あるいは戦後復興の一里塚となった東京オリンピックを現代に再現しようと、「アンダー・コントロール」と心にもない虚言を口走ってしまったのも、この情熱に由来していた。

首相官邸に入る安倍晋三首相=2020年3月5日
この情熱の下、晋三はある特異な世界観に支配されるようになった。ある一定期間を取ってみると、この列島に住みつく半分の人間は死に、代わりに半分の人間が生まれてくる。死ぬ時期や死に方は様々だが、そのことは「運命」や「神のなせる業」「運不運」としか言い様がない。
そして、もう少し長い期間を取ってみると人間はすべて新しい人間に入れ替わっている。すると、大事なものは個々の人間ではなく、人間群を貫いて伝わっていく「民族の精神」や「民族の伝統」といったものになる。
この世界観を礎に持つ情熱の向かうところ少しばかりの虚言や方便は改めて問題にするようなことではない。列島に住みつく人間群はいずれすべて入れ替わるのだ。「民族の精神」「民族の伝統」の前では何事も小事に過ぎない。森友学園や加計学園、あるいは公文書の改竄なども一部の世間は騒いでいたが、悠久の時の流れの前には泡沫のように流れ去っていくものだった。
新しい問題は次々に起き、そして過ぎていった。
列島に攻め込んで来た「コロナ」もそのように過ぎ去る態のものだった。
しかし、「コロナ」はそのようには過ぎていかなかった。列島に一定期間住みついて入れ替わるはずの個々の人間群がなぜか今回ばかりは沈黙していなかった。入れ替わるはずの個々の人間がなぜか耳障りな声を立て始めたのだ。
大きい情熱に後押しされた晋三の目算では、東京オリンピックという「民族の祭典」を列島の住民に与え、高揚した民族の気分のまま秋の総選挙に勝ち、列島の「主人」をもう一期勤め上げて「自主憲法」の形に目安をつけるはずだった。
「コロナ」の発生源、中国から人間を大量に入れたのも、検査の数を少なくし感染者数を少なめに抑えようとしたのも、すべてその使命感と情熱のなせる業だった。
だが、そういう晋三にも忘れていることがひとつあった。個々の人間にとってはその人生こそが唯一のドラマであり、そのドラマを終わらせようとする力には絶対的に抗うということだった。
「コロナ」は、個々の人間と晋三との大きい間隙を際立たせた。この間隙の前では、それまで晋三が得意としていたプレスへの圧力もSNS工作も効力を発揮しなかった。
公費を使った「情報交換」の美食会まで批判を向けられた晋三はようやく事の重大さに気がつき始めた。やむなく、夜は自宅テレビで情報収集に努めるよう考えを変えた。以来、各紙の「首相動静」には生彩がなくなった。
小説家志望を早々に断念してよかったと思うが、学生時代に読みまくったジャン・ポール・サルトルの長編小説『自由への道』を少しだけ真似してみた。同時代をほぼ同時進行で描いたこの小説にはイギリスのチャーチル首相なども登場するが、その気分や考えなどはもちろん推測。私も、安倍晋三の精神のあり方を描写するに当たっては私の推測に拠ったことを断っておく。
しかし「事実は小説より奇なり」という言葉がある。摩滅するほどに使い回された言葉だが、私はここでもそれを使わせていただきたい。