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新型コロナ禍で考えた「ソーシャル・ディスタンシング」

社会、会社、個人の関係をどう空間的に認識するか

塩原俊彦 高知大学准教授

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の騒ぎのなかで、「ソーシャル・ディスタンシング」(social distancing)という言葉を初めて知った。

 コミュニティがCOVID-19のような伝染病の感染や伝播の速度を遅くするのを支援するための公共衛生上の方策を意味している。直訳風に言えば、「ソーシャルな距離のとり方」ということになるだろう。

難しい「ソーシャル」という概念

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 米国の有力紙におけるこの言葉の使用をみてみると、2020年3月15日に検索したところでは、「ニューヨーク・タイムズ」紙に登場するのは、3月11日付の記事にすぎない。13日以降になって急増したような印象をもつ。ところが、「ワシントン・ポスト」紙の場合、1月24日付の記事のなかに登場して以降、2月18日の記事にも使われるなどして、NYTよりもずっと頻繁に使用されている。おそらく潮目が変わったのは、健康指向で知られているニュースサイト(Statnews.com)で、「コロナウイルスの広がりと闘うために、米国は「ソーシャル・ディスタンシング」措置を拡大するだろう。だが、コストがかかる」という2月3日付の記事が紹介されて以降のことではないか。

 実は、この「ソーシャル・ディスタンシング」というのは、とても優れた概念だ。しかし、残念ながら、この「ソーシャル」の意味の変遷について理解している日本人はとても少ないのではないか。ゆえに、「社会的な距離のとり方」などと訳してみても、本当のところ何を意味しているのかよくわからない。

 ためしに、レイモンド・ウィリアムズの有名な『完訳 キーワード辞典』をみてみると、「ソーシャル」の名詞形である「ソサイエティ」(society)の説明がある。「Societyの前形はラテン語socius(仲間)を語源とする古フランス語のsociétéおよびラテン語のsocietasで、14世紀に英語に入ってきた」とある。つまり、「societyの原義が「親交、ないし親睦」であったことを思い出すのが一番よいだろう」と書いてある。

 明治時代、このsocietyの翻訳に多くの人々は苦労した。それでも、福沢諭吉が1873年刊行の『西洋事情 外編巻之一』においてsocietyを「人間ノ交際」と訳したのは決して間違いではなかった。むしろ、ウィリアムズの指摘通り、原義に近い優れた翻訳であったと言える。1872年の中村正直によるミルの翻訳書『自由之理』でも、societyの訳語として、「仲間連中(即ち政府)」が使われていた。ところが、明治政府の役人はその後、「会社」や「団体」という意味をsocietyに持たせるのを意図的に回避するようになる。

 一般に、societyに「社会」という訳語を使ったのは福地源一郎とされている。漢語に「社会」という言葉はあるが、これは「コミュニティ」に近い意味をもつ(詳しくは資料参照)。だが実際には、明治政府は英国で広がっていた「ソーシャリゼーション」(民間会社が病院、教会、学校などに寄付を行い、民間会社の存続を間接的に拡充するために外部に向けた広がりをもとうとする運動)という社会的慣行を抹殺すべく血道をあげたとみるのが現実だと思われる。

 富国強兵のために国家予算拡充を課題とする明治政府にとって、societyという概念から会社を切り離すことが是非とも必要であったわけである。民間会社による寄付分を課税所得から控除する制度を導入すると、税収が減ってしまうからだ。

 この点について、空手指導者にして、優れた思想家であった廣西元信はその著書『資本論の誤訳』(こぶし書房)のなかで、「社会をひっくり返して会社という反対概念を造語したのは、まさに明治官許御用学の苦心の創作品です」と、実に的確に指摘している。

「ソーシャル」をめぐる誤り

 こうしてsocietyの形容詞、socialをめぐっても混乱が広がる。わかりやすい混乱の例は、「社会的間接資本」(Social Overhead Capital)をめぐる日本での翻訳に

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