2020年03月21日
3月18日午後2時前、私は東京の地下鉄半蔵門線、永田町駅構内を第2衆議院議員会館を目指して急ぎ足で歩いていた。地下鉄のホームには、永田町や霞が関に用事があるネクタイにマスク姿の人たちが思い思いに立っていた。
少なからぬ人が手に携えていた雑誌は、この日売り出したばかりの『週刊文春』だった。そのことは私にはすぐにわかった。
なぜなら私自身それを手に丸めて持っていて、地下鉄の中で熟読してきたからだ。
お目当ての記事はもちろん、森友事件に絡む公文書改竄問題に巻き込まれて自ら命を絶つことになってしまった近畿財務局職員の「手記」全文。
日本の政治経済の中心地、永田町や霞が関の住人たちがいかにこの問題に強い関心を持ち続けているか。そのことは、特に第2次安倍政権以降の政界関係者、官僚たちでなければわからないかもしれない。
自ら命を絶つかどうかは別にして、同じような境遇に落とされる可能性は、この政権以前に比べればはるかに高まっているからだ。
私が約束の午後2時前に訪れた場所は、元自民党幹事長、石破茂の部屋。岩波書店の月刊誌『世界』5月号(4月8日刊行)のインタビューのためだ。
インタビューをきっかり1時間で終えた私は、石破に『週刊文春』を渡し、後ほど電話で「手記」の読後感想を聞かせてくれる約束を取り付けた。
私は、石破には「手記」の感想をぜひ聞いてみたいと思っていた。なぜか。
現在もユーチューブで視聴できるが、2018年9月の自民党総裁選で、石破は安倍首相に二度目の挑戦を試み、NHKをはじめ各テレビ局のニュース番組などで公開討論を展開していた。
その討論のひとつ、テレビ朝日の報道ステーションで、私は、安倍を前にした石破の表情に異様な感情の高まりとそれを懸命に抑えながら話す姿を見た。その表情の下に渦巻く緊張感が、画面の向こうから伝わって来るようだった。
森友事件に関連して大規模な公文書改竄の事実を朝日新聞が報道し、意思に反して改竄作業を手伝わされた近畿財務局職員、赤木俊夫氏が自ら命を絶ったのは2018年3月。その半年後の総裁選、テレビ討論だった。
その一連の問題について質問したキャスターに、安倍はこう答えた。
「行政のプロセスということについては公正で公明でなければならない。それには心がけてまいりました。今後さらに公文書の改竄があってはなりません」
言葉づらそのものには何の問題もなく、発音した安倍の音声にも何の問題もなかった。しかし、発生されたその言葉の響きには、文書改竄に対する罪悪感や人の死にまつわる重い情感がなく、地方の特産物を試食した後に感想を喋る時とさして変わらない印象しか残さなかった。
この安倍の様子を前にした石破は、表情を一変させた。それまでの総裁選候補者の顔から明らかに大きな怒気を含んだ顔に変わった。表情の下では静かな怒りが荒れ狂い、それを必死に抑えつけながら言葉をつないでいる様子がありありと見て取れた。
「なんで近畿財務局の職員が自ら命を絶たなければいけなかったんですか。そういう人たちがどうしてこんなことにならなければいけなかったんだ、ということをきちんと明らかにしていかなければいけない」
石破のこの言葉も、文字に起こしてみれば特に変わったものではない。
しかし、何らかの形で前代未聞の公文書改竄にかかわらざるをえなかった官僚の死に対して、その行政組織のトップが、まるで特産物試食の感想と変わらない調子でコメントする姿を前にして、心の底から怒っている様子は見て取れた。
「どうしてこんなことにならなければいけなかったんだ」
石破がそう言及したその近畿財務局の官僚、赤木俊夫氏が死の直前に綴り続けてきた「手記」が『週刊文春』に載った。私が、石破に最初に感想を聞きたかった理由はそこにある。
その日の夕方6時30分ごろ、石破と連絡が取れた。携帯の向こうに出た石破は静かな声で話し始めた。
「これは、本物でしょう。財務省は再調査はしないと言っているが、政治的に言って口が裂けても再調査するとは言えないでしょう。裁判を見てみないとわからないが、大変なことです。何でも末端から切られる。歴史の中ではこういうことはあったんでしょう。民事裁判が始まり、事実をどう押さえていくか、それを見てみたい」
多忙の中で記事を読み、読後の感想がまだうまく整理できていないように見えた。
私は、2018年の総裁選テレビ討論の時の静かな怒りの様子について聞いてみた。
――あのテレビ討論の時、石破さんは本当に怒っているように見えました。だから、今回感想を聞いてみたかったんです。
「それは普通なら怒るでしょう。権力は弱い人のために使うものです。それが政治です」
あらためてこう話し始めた石破は、突然自らの子ども時代の話を始めた。
「私の家では本当に厳しかった。昭和30年代、40年代の鳥取県知事と言えば、その地方では大権力者です。その末っ子で長男と言えば、さぞ溺愛されたんだろうとみんな思うかもしれないが、とんでもない。厳しかった」
石破の父、二朗は1958年に建設次官から出身地の鳥取県知事に転身。この最初の知事選の前には友人の田中角栄が東京都知事選への出馬を要請したが、それを断って故郷の鳥取で出た。
「なぜ日本一小さい鳥取の知事を望むんだ」と聞く角栄に、二朗は「私は鳥取県人だ。鳥取に生まれ育ち、そして死ぬのだ」と答え、角栄は「郷土を思う至情に打たれた」と回顧した逸話が伝わっている。
その知事選は激戦になり、東京の自宅では二朗の二人の娘がこたつに入り、開票を伝えるラジオ放送に耳を傾けていた。同じこたつには角栄も足を突っ込み、当選が決まると「これで安心だね」と言って帰って行った。そんな微笑を誘うお返しのエピソードも残っている。
石破茂はこの二人の姉の末の弟。その弟の茂が物心つくころには二朗は2選、3選を重ねていた。
「本当に厳しかったんです。お手伝いさんや県庁職員に私がちょっとでもぞんざいな態度を取ったら『出て行け』と言われて、一晩家に入れてもらえなかった。家には秘書課の人たちがよく出入りしていました」
茂が小学校1年か幼稚園の年長のころ、家に来ていた秘書課の職員に「ぞんざいな口」を聞いたらしい。その冬の夜、茂は外に出され、一晩凍えて立っていなければならなかった。
「父は夜の9時か10時ころに宴会の席から帰って来ることが多かったんですね。その時に、4人いたお手伝いさんがまだ起きていて食事の用意などをしていると、母に対して『お前は人のことがわかっていない』と叱っていました」
テレビ討論の時の話から、なぜこのような話が出てきたかと言うと、石破は子ども時代の話を始める前に「安倍家の教育がどうだったかはわかりませんが」という前置きの言葉を語っていた。
石破は安倍に気を使ってこの言葉は使わないように私に注意を促したが、ここに注意書きを残しておけばいいだろう。つまり、テレビ討論で見せた石破の怒りの背景には、子どものころ父親の二朗から授かった冬の教育があったということだ。
恐らくは家に出入りしていた秘書課の職員たちとも親しくなったにちがいない。
「権力は弱い人のために使うものです。それが政治です」
この政治観、権力観は父親の二朗から受け継いできたものだろう。
私は安倍のルーツを探るべく、祖父の岸信介と大叔父の佐藤栄作兄弟の故郷、山口県・田布施を訪ね、実家跡や出身小学校の跡などを歩き回ったことがある。現在ではこの宰相兄弟の子ども時代を思わせるものは自然の景観を除いてはほとんど存在しない。
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