2020年04月02日
韓国外交省が3月に公表した外交文書から、平成が始まった直後の1989年(平成元年)4月に開かれた日韓外相会談での「天皇訪韓」を巡るやり取りが明らかになった。
当時の日本政府関係者によれば、日本政府の一部にも天皇訪韓について検討すべきだという声は上がっていたが、韓国内にある反日感情などもあり、実現することはなかった。
元駐韓公使の町田貢氏によれば、韓国は盧泰愚政権以降、政権が代わるたびに、何度も与党の有力政治家などが非公式の外交ルートで、天皇訪韓の相談を持ちかけてきた。町田氏は韓国側の思惑を「歴史認識問題に区切りをつけた政権として評価されたいという野心があった」とみる。
盧泰愚政権の場合、1989年2月の大喪の礼が終わった直後、政権中枢の側近から「天皇訪韓を実現できないだろうか」という相談を受けたという。89年4月の日韓外相会談の際、宇野宗佑外相が天皇訪韓に触れたが、町田氏は「親韓派だった宇野外相が韓国側の天皇訪韓待望論に配慮した発言だろう」と語る。
一方、1991年(平成3年)になって天皇訪中の準備が始まった。
当時、外務省アジア局長だった谷野作太郎氏によれば、政官界への事前説明の際、中曽根康弘元首相から「(中国にだけ行って)韓国との関係が持つのか」と尋ねられたという。谷野氏は「日韓関係に強い影響力があった中曽根氏だけに、韓国より先に中国を訪れることを懸念したようだった」と語る。
また、谷野氏は、当時の宮内庁の角谷清式部官長からも「なぜ、韓国を先に訪問しないのか」と強く迫られたという。
しかし、谷野氏は中曽根氏や角谷氏に対して、天皇訪韓の実現は難しいと返答していた。
谷野氏は当時、「ソウル大で日章旗が焼かれたり、デモ隊が町中に出てきたりしたらどうするのかと思った」と語る。谷野氏は角谷氏に対し、「(訪韓の際に混乱が起きて)陛下が動揺されたら、畏れ多いことだ」「全く自信が無い」「陛下が覚悟されているというならまだしも、そういうわけではないでしょう」と答えたという。
その後も、韓国側はたびたび天皇訪韓に関心を示し続けた。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください