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南スーダン野球を支える「最強コンビ」の誕生

野球人、アフリカをゆく(26)元外相の大統領顧問が野球連盟の会長に

友成晋也 一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構 代表理事

ベンジャミン大統領顧問が野球連盟の会長就任を承諾いただき、がっちり握手!

<これまでのあらすじ>
 かつてガーナ、タンザニアで野球の普及活動を経験した筆者が、危険地南スーダンに赴任し、ここでもゼロから野球を立ち上げて1年3カ月が過ぎた。アメリカ帰りのピーターと出会い、女子ソフトボールの発足も視野に入ってくる中、アフリカ野球支援の土台となっていたアフリカ野球友の会の解散が決まり、南スーダン野球は後ろ盾を失おうとしていた。自立発展をしていくための次なる一手は…。

 日本への一時帰国から戻り、再び南スーダンの日常にが始まった。週末はさっそく南スーダン野球団の練習場であるジュバ大学のグラウンドに足を運ぶ。

 南スーダンの11月は、雨季が終わって乾季となり、グラウンドは照り返しが強い。私の不在期間の練習は、ピーターとウィリアム両コーチが指揮を執ってくれている。学校で行った野球セミナー以来、増え始めた女子メンバーもほどよく定着し、少しずつ野球がわかってきているようだ。グラウンドは華やいで活気があふれている。

野球連盟の会長候補のベンジャミン氏

 それは私がジュバに帰任して2回目の日曜日のことだった。前週の彼らの上達ぶりを見て、この日の練習では、ケースノックを行ってみた。走者やバッターをつけて行う実践形式のノックだ。

 本来なら守備の連係プレーの練習にもなるところだが、まだそこまでレベルが上がっていない。まずはバッターとランナーをつけてノックをし、アウトにできるか、どこに投げるべきかを考えてプレーする練習にした。

 その前段階として、リードの仕方や、スタートの切り方、あるいはベースラニングの練習もやってみた。長打を打った時にスピードを落とさず1塁を蹴って2塁へ向かう走り方など。男子に交じって同じ練習に取り組む女子たちの上達が思った以上に早く、次の練習がさらに楽しみになってくる。

 そんな練習後のミーティングを終え、散会したところ、コーチのピーターが「ミスター・トモナリ。野球連盟の件ですけど」と声をかけてきた。

 「会長候補のベンジャミン氏と連絡がとれ、会ってくれることになりました」と弾んだ声のピーター。

 「ほんとか!よし!」と思わずガッツポーズをしながら、高ぶった声を出す私。

 南スーダンで野球が始まって1年3カ月で、まだよちよち歩きのレベルなのに、野球連盟とか会長とか、なんて大げさな! そんな風に思われる人が多いと思うので、少し解説したい。

守備と打撃の2チームに分け、ノックと同時にバッターが走る実践形式の練習。

競技の存続にかかわる野球連盟のあり方

 どんなスポーツでも、その国には統括する「連盟」「協会」というものがある。日本でいえば、「全日本野球協会(BFJ)」や、「全日本サッカー協会(JFA)」などがそれにあたる。

 これら競技連盟は、国際試合を行うときには不可欠な存在だ。世界ランキングは、世界の各スポーツ統括機関がルールを定めている。世界野球・ソフトボール連盟(WBSC)や国際サッカー連盟(FIFA)などに各国の競技連盟は加盟し、それぞれのナショナルチームの公認国際大会の成績などに基づいてランキングが算出される。

 しかし、各国の連盟の大きな目的の一つは、その国の対象競技の普及活動と統括にある。そして、サッカーのような世界のメジャースポーツと違って、マイナースポーツの野球では、そのあり方が競技そのものの存続にかかわってくる。

 野球連盟がいかに適正に運営されるか。これは25年にわたるアフリカにおける野球とのかかわりのなかで、嫌というほど経験してきた大事な課題だ。

ガーナでの野球連盟の経験

 私は1996年にガーナに赴任した当時、ナショナルチームの監督になったが、当時のガーナに野球連盟はすでに存在していた。連盟会長は、元陸軍ナンバー3の将軍であり、事務局長が国家スポーツ評議会(ナショナルスポーツカウンシル)に所属する職員だったが、二人とも野球が何たるかを知らない。つまり名目上配置されているだけの存在だった。しかも、事務局長は他に4つのスポーツの事務局長を兼ねていた。

 そんな状態で事務が回るはずがない。ガーナ野球連盟には普及するビジョンも計画も予算もなく、資金を集める能力どころか意欲さえもなかった。彼らの代わりに、選手たちと監督である私自身が、汗をかいてやりくりしていた。

 そのくせ、国内野球大会や国際親善試合を開催しようとすると、「なぜ連盟に事前に連絡相談してこないのだ」とクレームをつけられ、挙句の果てにその大会や試合を認めない、とまで言われる始末。

 しかし、私がガーナを離れて10年が経った2010年に、私が監督をしていた当時の教え子、ナショナルチームのキャプテンだったアルバート・フリンポン氏が会長に就任した。事務局長や他のメンバーも意欲的な人たちが配置され、連盟として機能するようになった。

 そんな経験を踏まえ、

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