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スペイン風邪に感染した平民宰相・原敬。米騒動から見えたコロナ禍に通じる教訓

世界的な感染症流行のなか直面したもう一つの国家危機を日本はどう乗り越えたのか

曽我豪 朝日新聞編集委員(政治担当)

政権発足から1カ月後に発病した原敬首相

 記憶を確かめるため、緊急事態宣言が出る前の人影もまばらな図書館へ行き、当時の「原敬日記」を読み始めたところ、案外とすぐに確認が出来た。

 やはり、早々と罹患していた。しかも、1918(大正7)年9月29日の政権発足から1カ月もたたぬうちの発病である。

 10月の記述にはこうある。

二十六日 午後三時の汽車にて腰越別荘に赴く。昨夜北里研究所社団法人となれる祝宴に招かれ其席にて風邪にかかり、夜に入り熱度三十八度五分に上る。
二十九日 午前腰越から帰京、風邪は近来各地に伝播せし流行感冒(俗に西班牙風と云ふ)なりしが、二日間斗りに下熱し、昨夜は全く平熱となりたれば今朝帰京せしなり。

拡大1950年に公開された明治・大正の原敬日誌。
 今なら即入院・検査か、少なくとも別荘で隔離、待機になるだろう。後から振り返れば、都合3波あったスペイン風邪のうち、日本では同年春から夏にかけ第1波が襲来、秋からは突然変異により致死率が急激に高まった第2波に見舞われた。原の罹患はまさにその第2派が上陸した直後の時期だった。

 29日の記述によれば、原首相は上京後に官邸で閣議を開き、米国から第1次世界大戦の休戦問題について交渉があったため、英仏駐在の日本大使に臨機出席を命じるなど、外交判断を下している。

 ただ、翌30日には、米籾輸入税中止の緊急勅令などを巡り枢密院の会議があったものの、「余流行感冒後一週間を経ざる付御前に出づることを遠慮して出席せず」とある。原も大正天皇との同席は避けたのだった。

もう一つの深刻な国家危機

 だが、政権発足直前の日記をたどると、原はもう一つの深刻な国家危機の後処理に直面していたことが分かる。

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筆者

曽我豪

曽我豪(そが・たけし) 朝日新聞編集委員(政治担当)

1962年生まれ。三重県出身。1985年、東大法卒、朝日新聞入社。熊本支局、西部本社社会部を経て89年政治部。総理番、平河ク・梶山幹事長番、野党ク・民社党担当、文部、建設・国土、労働省など担当。94年、週刊朝日。 オウム事件、阪神大震災、など。テリー伊藤氏の架空政治小説を担当(後に「永田町風雲録」として出版)。97年、政治部 金融国会で「政策新人類」を造語。2000年、月刊誌「論座」副編集長。01年 政治部 小泉政権誕生に遭遇。05年、政治部デスク。07年、編集局編集委員(政治担当)。11年、政治部長。14年、編集委員(政治担当)。15年 東大客員教授

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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