井戸まさえ(いど・まさえ) ジャーナリスト、元衆議院議員
1965年宮城県生まれ。ジャーナリスト。東京女子大学大学院博士後期課程在籍。 東洋経済新報社勤務を経て2005年より兵庫県議会議員。2009年、民主党から衆議院議員に初当選(当選1回)。著書に『無戸籍の日本人』『日本の無戸籍者』『 ドキュメント 候補者たちの闘争』、佐藤優との共著『不安な未来を生き抜く最強の子育て』など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
危機こそ試される政治家の「言葉の力」
「危機」こそ政治家の力が試される。その源泉は〝言葉〟である。
特に今回の新型コロナウイルスのように、未知なる危機と対峙しなければならない時はリーダーたる政治家がいかに説得力のある言葉を持つかが政策履行に欠かせない必須条件ともなる。「たとえ短期的には国民に理不尽とも思える重い負担をかけることがあったとしても、将来は必ず公益を通じて個人の幸せにつながる」という説得がなければ国民は動かないし、一歩間違えればその政権を揺るがすことにもなりかねない。
「危機」においての演説は、政治家の生命力そのものを露わにする。ドイツのメルケル首相の演説を見ても分かる通り、能力だけでなく、苦難に満ちた環境下で生き延びてきた軌跡とともに、なぜ今ここでこの役を引き受けているかと言う巡り合わせの妙も含めて政治家の全身全霊が映し出されるのだ。その際の「演説」は成功しても失敗しても後世に語り継がれる、まさに「一世一代の大勝負」ともなるのだ。
「スピーク・フォー・ジャパン」(日本のために語れ)。
こう表現しながら、危機における「演説」が国家の命運を左右するほど大事なものだと指摘する国会議員がいる。
安倍晋三総理だ。
著書『美しい国へ』(文春新書)では、第二次世界大戦の際、「ヒットラーとの宥和を進めるイギリスのチェンバレン首相に対し、野党を代表して質問に立ったアーサー・グリーンウッド議員は首相答弁に一瞬たじろぐことがあった。このとき、与党の保守党席から「アーサー、スピーク・フォー・イングランド(英国のために語れ)」と声が飛んだ。グリーンウッドはその声に勇気付けられて、政府に対独開戦を迫る歴史的な名演説を行なったという」とその元ネタとなった逸話を紹介している。
そして「初当選して以来、わたしは、常に『闘う政治家』でありたいと願っている。それは闇雲に闘うことではない。『スピーク・フォー・ジャパン』という国民の声に耳を澄ますことなのである。」と、闇雲以外の闘い方こそが、国民の声に耳をすませ、「国民のために語る」=「演説」であると示しているのである。
しかし、その実践はさぞかし難しいことと見える。
緊急事態宣言時の安倍総理の会見には、「人との関わりを7-8割削減する必要がある」と数値目標を示したものの「世界最大級の経済対策を実施する」とし、6兆円規模の現金給付というものの、一世帯30万円の支給要件は極めて限定的、児童手当に1万円を加える程度の子育て家庭支援策からは「国民の声に耳を澄ました」痕跡は見当たらず、「戦後最大の危機を乗り越えていく」と強調。「海外で見られるような都市封鎖・ロックダウンではなく、道路封鎖はしない。必要もない。電気やガス、ゴミの収集などは平常通り」と「平常通り」をことさら強調してみせたところに至っては、矛盾さえ感じさせることとなった。
「会見」と言った場を持つ総理に限らず、潜在的に自分の存在や実績を誇示したい政治家の性からすれば「国家の危機」こそ自らの力の見せどころとも言える。
考えるより先に反射神経的に自らを誇示するのが政治家の、政治家たる所以でもあろうが、ところが今回は急に生き生きしてきた小池東京都知事に比しても、普段「国民を守る」と威勢の良いことを言っている国会議員も通り一遍のことしか言わず、杉田水脈氏他おきまりのメンバーが炎上誘発ツイートを流す程度。誰が言ってもほぼ同じ内容、つまりは「沈黙」と同等の発信しかしていないのはなぜなのだろうか。
政治家たちの「キャント・スピーク・フォー・ジャパン」(日本のために語れず)の源を探ってみた。
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