日本は特殊ではない。欧米と同様の事態を想定して対策をとることが必要だ
2020年04月21日
カミュの名著「ペスト」に、「この瞬間から、われわれすべての者の事件になったということができる」という一節がある。それまで普段の生活を続けてきたフランスのオラン市市民が隔離され、「愛する者との別離というような個人的な感情が、にわかに一般市民全体の感情となり、そして恐怖心とともに、この長い追放の期間の主要な苦痛となったのであった」と続く。
その「ペスト」を読み直して戦慄(せんりつ)した。
オラン市民も市政府も、まず疫病の存在を否定し(えらく長い時間がかかる)、次に受け入れて恐怖に陥り、そのうち慣れて不感症的になり、最後に解放されるが、その時には市民の半分が死んでいる。私同様つまらない本と思った方も、今読めば、市民の感情の変化から死にゆく人々の姿、最前線で戦う医師たちのプロフェッショナリズムなど、過去に気づかなかった様々なことに気づかされることだろう。
日本は今やコロナでの死亡者は263人(4月20日午後11時45分現在)、感染者数は1万人を大きく超えた。東京における感染者の増加ペースは多少鈍化したように思えるが、死亡者は増えている。
中国の隣で何百万人もの往来があり、緩い水際対策に自粛要請で、コロナの危険に随分早くからさらわれていたというのに、我が日本は、諸外国に比べれば、いまだ死亡者数は極めて低いレベルに抑えられている。
クラスター対策が奏功した、現場の医療従事者の努力、国民の高い公衆衛生意識のおかげ、いやBCGのせい、実はS型で抗体を既に大半の日本人が獲得しているなどなど、様々な“理由”をあげて、「日本だけは特別」と思いたくなるのも無理はない。だが、専門家にいくら聞いても、腑におちる説明はもらえなかった。「ジャパニーズ・ミステリー」だ。
そのせいで、超大国の米国で死者が4万近くなり、美しいイタリアや近代民主主義の元祖イギリスでも死者が2万人を超えるという現実を、連日のようにテレビが報道しようと、映画でしか見たことがない戦場の“野戦病院”のような患者の収容施設がスタジアムや公園に出現する光景が報じられようと、「明日は我が身」というより、遠い別の国のこととしか感じられなかった人は多いのではないか。
欧米では、新型コロナとの戦いは「第3次世界大戦」そのものだ。人っ子一人いないロンドンの通りは、より厳しい外出規制があるからというわけでは必ずしもなく、「死の恐怖」から外に出られない、出たくないという人々の感情から成り立っているものだ。
一方、私たち日本人にとって、「死」は自分や家族にとっての現実ではない。正直に言って。それは運の悪い誰かのもので、私にはまず関係ない、という感覚である。しかし、それは今後変わるかもしれない。
全国に緊急事態宣言が出されたが、まだ危機感はあまり感じていないという人もいるかもしれないが、危機感を持ってもらいたい。完全にフェーズは変わったのだ。
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