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コロナで狂い出した政権運営

非常時にあって、官僚は必ずしも優秀でない

花田吉隆 元防衛大学校教授

緊急事態宣言を出した後の記者会見で、質問に答える安倍晋三首相(右)。左は諮問委員会の尾身茂会長=2020年4月7日、首相官邸、岩下毅撮影

 安倍政権の混迷が止まらない。何やら東日本大震災時の民主党政権の右往左往ぶりと二重写しになる。これまで比較的順調だっただけに、この期に及んでの混乱ぶりが余計目につく。危機の時こそ真の実力が問われる。と言うことは、安倍政権は今まで、平時だったから安定していたということか。

 安倍一強といわれ、向かうところ敵なしだった。この夏のオリンピックを終え、念願の憲法改正に道筋をつけ、政権を禅譲する、そんなシナリオを描いていたかもしれない。よもやコロナが政権を揺るがすなど考えてもいなかっただろう。

 つまずきはクルーズ船だった。検疫のセオリー通りに対応したはずが、想定外の感染拡大を招いた。狭い船内で乗組員がサーブすることが感染拡大を生むとは、考えなかった。それでも、その後は何とか安定飛行を続けた。それがここにきてガタガタと崩れ落ちるかのようだ。

 PCR検査数が、首相自ら号令をかけ、2万件は達成できると公言したにもかかわらず、実態はなお数千件にとどまる。諸外国でこれを遥かに上回る検査が行われながら、なぜ日本でできないか。保健所や帰国者接触者相談センターのキャパシティーがネックとされるが、では国はなぜ、体制を強化できないか(厚労省は4月15日付事務連絡で、ドライブスルーによる検査容認を通知した。また、東京都医師会もPCR検査所設置を決めた)。噂の域を出ないが、本当のネックは厚労省の医系技官にあるともいわれる。首相の意向が官僚に及ばない、そういうことがあるのだろうか。

 アベノマスクは、ないよりましかもしれないが、いかんせん466億円の使い道としては国民受けしない。星野源さんとのSNSコラボ動画も、いかにも緊張感を欠く。当然、首相自らのアイデアではなく、裏で振り付けた人物がいる。センスが疑われる発想だ。

総理の思考と世論が乖離

 東京都による緊急事態措置の休業対象に理美容を入れるか否か、時間をおいて宣言の効果を見極めるか否かの紛糾は、これまた国民の目には、事態切迫の折、政府が横やりを入れているだけにしか見えない。政府とすれば、地域を超えた調整の要あり、ということだろうが、今の都民の気持ちは、早く、広く、一気に、だ。都民の危機感は募るばかりで、そういう空気は都知事の方がうまくつかんでいた。都民の目には、正義の味方、「ジャンヌダルク小池」と、「憎き悪代官西村」の争いのように見え、勝敗は戦う前から明らかだった。無論、西村経済再生相は総理の代理でしかない。裏で官邸と都知事との権力闘争があったと噂される。

 極めつきが、16日に発表された緊急事態の全国拡大と、30万円に代わる一律10万円の支給だ。緊急事態宣言の方は、政府は前の週から発出を考えていたようだが、国民の目には、県独自の緊急事態宣言が次々と出され、抑えが利かなくなった中、勢いに押されて政府が政策転換に追い込まれたように映る。10万円の方は、総理自身は一律10万円を考えていたようだが、財務大臣が「2009年の苦い経験を繰り返してはならない」とし、30万円を強硬に主張したという。閣議決定し国会提出直前になっての変更は異例で、幹事長が10万円案を蒸し返したのを奇禍とした公明党がねじ込んで成果をもぎ取った。

 この一連の流れを見て思うのは、総理の思考と世論が乖離しているということだ。政府が国民の危機感を捉えきれてない。言うまでもなく、世論の動向を的確につかんでこその政治家だ。その根本のところが機能不全を起こしている。原因は上記のとおり権力闘争や経済配慮もあろうが、どうも懸念されるのが、官邸内の官房長官の比重低下と経済官僚の重用だ。官邸に歯車の狂いが見られる。

非常時の官僚重視は危険

 こういう危機の非常時にあって、官僚重視は危険だ。

 第一に、官僚は世論の動きに鈍い。そもそも世論の動きを見るのは政治家の仕事だ。官僚は世論の方を向くのではなく、法律や組織の方を向く。官僚に世論の方を向けと言うのがそもそも無理だ。そういう官僚の限界に思いが至らなかったとすれば、それは総理の責任でもある。

 第二に、官僚は、常に安全運転だ。法律や前例との適合性を図りつつ無難な所に解を見つける。しかし、非常時はそれでは済まない。時に横暴と思われることでも、結果が良ければ良しとされることもある。その点、今は都知事の方がずっと「頼もしい」。危機に際し国民が求めるのは頼れるリーダーだ。無難な官僚ではない。

 第三に、それと同列のことだが、官僚は答えを過去の延長線上に求める。その限りにおいて官僚は優秀なのだ。それは、教科書にそう書いてあるからであり、受験競争でそれが通るからだ。しかし、非常時にそれが通らないことは改めて言うまでもない。非常時とは、過去との断絶だ。答えは過去の延長線上にない。これまでの経験がものをいう場面でない。現実をじっくり見定め、何が最も適当か、何が国民を守るうえで最もふさわしい答えかを見つけ出さなければならない。それは、官僚の枠に収まり、優秀な官僚と評価の高い者にできる技ではない。だから、こういう場面で往々にして官僚が間違う。あの優秀な官僚がなぜ間違うのか、世間は不思議がるが、答えはそれほど複雑でない。要するに非常時、受験の練達の士は役に立たない。

 第四に、そういう時こそ政治の出番だ。非常時にあって、国民は不安で一杯だ。感染は一向に収まる気配なく、休業で生活は成り立っていかない。誰もが明日の不安を抱え心配な毎日を送る。政治家こそが、そういう国民に寄り添うことができる。だからこそ国民は政治家にリーダーシップを託すのだ。政治家と国民を結びつけるのは信頼だ。危機に国民に寄り添うことのない政治家に、国民が信頼を寄せることはない。信頼が崩れれば政権は成り立たない。

国民が求める力強いリーダー

 非常時、国民は、果敢にリーダーシップを発揮し、この苦難を乗り切っていく強いリーダーを求めている。無難な安全運転では困難は克服できない。場合によっては、力技も必要だろう。平時では眉をひそめるような権力の執行も非常時には許される。そういう力強いリーダーをこそ、国民は今、求めている。政治家が官僚を使うことは必要だろう。しかし、非常時に官僚任せはダメだ。政治家こそが、自らの責任で政治判断を下していかなければならない。

 官邸は、狂い出した歯車を止めることができるか。再び、政治のリーダーシップを取り戻すことができるか。コロナ危機をいかに乗り切っていくか、政治家の実力が問われている。選挙の争点はその一点しかない。韓国の総選挙ではみごと与党が勝利した。今夏の都知事選、秋の米大統領選でも事情は同じだ。あるいは、来年の自民党総裁選すら、そうかもしれない。コロナは、政治の帰趨に影を落としつつある。