人間を理性的存在として特権化する「人間中心主義」の限界
2020年04月30日
このところ何度か、AI倫理にかかわる問題を論じてきた。「AI倫理を問う(上)」、「AI倫理を問う(下)」そして「世界の潮流としての人間中心主義批判」である。ここでは、西垣通・河島茂生著『AI倫理:人工知能は「責任」をとれるのか』を参考にしながらAI倫理についてもう一度考えてみたい。
人間だけが理性をもち、ゆえに行為の選択において道徳的判断をくだせるというのが、カント流の近代的倫理思想である。主体たる人格が道徳的判断をくだすのだが、その主体たる人間は地球や国家、都市や農村、学校や会社、家庭などのさまざまに重層化された共同体とは無関係ではいられない。
それでも、行動の結果としての倫理的・道徳的責任を負えるのは基本的に人間および人間の集まりとしての法人に限定される、とみなす。ここに人間を理性的存在として特権化する「人間中心主義」が潜んでいることになる。
だが、「世界の潮流としての人間中心主義批判」で取り上げたように、21世紀のいま、“non-human persons”という「格」が動物に認められる動きが世界中で広がりつつある。さらに、動物は感覚力のある生き物(sentient beings)であるので動物の安寧要求に十分に配慮すべきであるとの考え方も広がりをみせている。
おそらくこうした変化は、AI搭載のロボットにさえ「疑似人格」を見出そうという動きに対応したものではないかという疑いが思い浮かぶ。すでに2016年の段階で、欧州議会の法律問題委員会の諮問で作成された報告書「ロボット工学におけるヨーロッパ市民法」には、ロボットを「電子人」(electronic persons)として自然人と同じようにみなそうとする考え方が示されている。
おそらく人間の理性を特権化する人間中心主義への反省は、人間以外の動物にもロボットにも疑似人格を求めるという短絡的な思想を招きかねないのではないか。そうすることで、なかなか誕生するとは思えない自律型マシーンとしてのAIロボットにも、なんらかの倫理的・道徳的責任を負わせるといった主張が幅を利かせることになるのではないか。
だが、
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