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岐路にたつ南スーダン野球 次の一手へ切り札の野球人が登場!

野球人、アフリカをゆく(27)アフリカと野球とビジネスの共生を狙え

友成晋也 一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構 代表理事

ピーター(中央)とタンザニア野球関係者。タンザニア野球連盟オフィスの前で、ンチンビ事務局長(左から3人目)らと共に記念撮影。

<これまでのあらすじ>
 かつてガーナ、タンザニアで野球の普及活動を経験した筆者が、危険地南スーダンに赴任し、ここでもゼロから野球を立ち上げて1年3カ月が過ぎた。アメリカ帰りのピーターと出会い、女子ソフトボールの発足も視野に入ってくる中、アフリカ野球支援の土台となっていたアフリカ野球友の会の解散が決まり、南スーダン野球は後ろ盾を失おうとしていた。自立発展をしていくための次なる一手は…。

 「ピーター、あれがタンザニア甲子園球場だ」

 運転手付きレンタカーのフロントガラス越しに見えてきた外野フェンス。大柄のピーターが私の隣の席で前のめりになる。

 「ワオ!いいですね。まさに野球場だ!」

 常夏のダルエスサラームは朝10時とはいえもう暑い。フェンスの金網の内側には、陽ざしが照り付けて光って見える緑色の外野が広がっている。そのまま車は外野フェンスの外側にある道を金網に沿ってゆっくり進む。土の内野グラウンドには草を刈ったり、グラウンドを整備している人がちらほらと見える。

 右手の車窓から球場の様子をずっと見つめるピーターに、「ちょっと低いけどピッチャーズマウンドもあるんだよ。バックネット裏にある観客席には100人くらいが座れるんだ。その一角にはスコアラー専用の席もある。これは、タンザニア野球連盟のンチンビ事務局長のアイデアなんだよ」などと説明をしているうちに、一塁側ベンチの裏まで車が進み、一軒の家屋の横まできた。

 「運転手さん、ここで止めて。ピーター、これが球場の管理棟。タンザニア野球連盟のオフィスでもあるんだ」

野球場の名称は「タンザニア甲子園球場」。グラウンドはレフト後方から見え始める。

ピーターとンチンビ事務局長を訪問

 2019年12月4日。私はジュバの職場を4日ほど休んで、南スーダン野球団の相棒コーチ、ピーターを連れ、夜の国際線を乗り継ぎ、タンザニアのダルエスサラームにやってきた。目的は翌日から始まる第7回タンザニア甲子園大会の運営支援と視察。南スーダン野球連盟の事務局長になるピーターに、短期間で発展したタンザニア野球からいろいろ学んでもらうのが主な狙いだ。

 管理棟の入り口をピーターと一緒に入ってゆくと、机の上でパソコンに向かっていたタンザニア野球連盟のンチンビ事務局長がすぐに我々に気付いた。

 「ミスター・トモナリ!カリブ・サーナ(ようこそ!)と言いながらにわかにすくっと立ち上がった。

 スワヒリ語で「アサンテ・サーナ(ありがとう)」と返しながら、まずはがっちりと握手を交わす。続けて、「紹介するよ。南スーダン野球連盟事務局長に就任予定のピーターだ」と言いながら、すでに満面笑みのピーターに前に出るよう促した。

 「ミスター・ンチンビ。お話はミスター・トモナリからたくさん伺っています。今回はいろいろ勉強させてください」と、大柄な体を折るようにして小柄なンチンビ事務局長と握手を交わす。

 「ようこそ、タンザニア甲子園球場へ!ミスター・トモナリのフェースブックで、あなたの活躍ぶりはすでによく知っていますよ。初対面な気がしないですね。ガハハハハ!」と豪快に笑いながら着席を促すンチンビ事務局長。

 南スーダン野球の状況を知っているンチンビ事務局長から、当初、タンザニア甲子園大会に南スーダンチームとして参加してはどうかとの話があった。ありがたい申し出だったが、南スーダン野球団はまだ本格的な試合ができるレベルにはない。代わりピーター事務局長を連れていくので、大会運営などを現場で学ばせてほしい、ということになった。

 お礼を言いながら、私から「ピーターは、基本的にンチンビさんの弟子となって、大会期間中はそばにいるようにするので、面倒をみてあげてほしい」というと、「ミスター・トモナリはタンザニア野球と南スーダン野球の父のような存在だ。我々は同じトモナリチルドレンだ。ガハハハ」とまたも豪快に笑う。

 初対面なのに、一気に場が和んだ。

 ンチンビ事務局長はさっそく球場を案内したり、準備のために集まった選手たちにピーターを紹介するなど、動き回ってくれた。

大会準備のために集まってきた審判やコーチたちとさっそく打ち解けるピーター(左から2人目)

アフリカ野球活動の戦友、柴田浩平

 私は、準備状況やスケジュールなどを確認したあと、ピーターをンチンビ事務局長に預けて球場を後にし、車で10分の距離にある宿泊先のホテルに戻った。5階フロアのホテルのフロント横にあるレストランに入ると、がっしりした体格の30代半ばの日本人男性が、パソコンを開いてエネルギッシュになにやら打ち込んでいる。

 「柴田、お待たせ!」と声をかけると、パッと顔を上げ、爽やかな笑顔で「お疲れ様です!」と返してきた。

 彼の名前は柴田浩平、37歳。私との年齢差は親子といってもおかしくないくらいあるが、どちらかというと気のおけない友人のような関係だ。

 彼との付き合いは長い。元高校球児で、野球が大好き。2004年当時、21歳の大学生だった彼は、海外の野球普及活動に関心を持っており、立ち上げて間もなかった「アフリカ野球友の会」(アフ友)の門を叩いた。大学卒業後は、いくつかの企業に勤務する傍ら、長年中心的なスタッフとして活躍した。私のアフリカ野球活動の戦友のような存在だ。

 これまで、ウガンダやガーナなどでアフ友の活動経験を積み、アフリカの魅力にはまった彼は、ついに30歳の時、日本の中古車をアフリカに輸出する日系企業に転職し、タンザニアの支店に勤務する。

 それは、ちょうど私がタンザニアに勤務していた時期だった。私は仕事の傍ら、野球の普及活動にも精を出していた時だったので、かねてから腹心の仲間である柴田は、当然私の活動に加わることになると思っていたが、思いがけずそうはならなかった。それには事情があった。

ダルエスサラームの宿泊先ホテルのレストランで話す柴田さん(右)と筆者

アフリカで成長したバリバリのビジネスマン

 「柴田は5年ぶりのタンザニアだろ?」。「いやー、ますます大都会になってますね。びっくりしました」。パソコンの手を休める柴田。3日前からタンザニアに先乗りし、朝から晩まで動き回っていた彼の表情が元気で明るいことに少しほっとし、対面の椅子に腰をかけて私は話を続けた。

過去15年平均6%の経済成長を遂げるタンザニア。経済の中心地ダルエスサラームは人口推定500万人以上。2030年には1000万人になると予想されている。
 「当時の職場には顔を出した?」

 「はい。あの職場ではいい仲間に出会い、貴重な経験をさせてもらいました。忙しすぎて、野球の活動にはほとんど参加できず、友成さんには申し訳なかったんですけど」

 「いや、当時は正直驚いたよ。ばりばりの野球人だった柴田が、なぜ、あんまり野球に関わってくれないのかと、不思議でしょうがなかったな」

 「海外での仕事は初めてで、いっぱいいっぱいでしたね。最初は慣れないクレーム処理に忙殺されてました。そのうち、クレームの内容分析をして課題の順位付けをし、予防策をとることでクレームを減らすことに成功したり、タンザニア人スタッフとその喜びを分かち合ったりしました」

 「クレーム処理に忙殺、か。よく嫌にならなかったな。逆に野球で気晴らししたくなったりしなかったのか?」

 柴田は、当時を回想したのか、一瞬間をおいて、「クレームによって、見えないことを考えるヒントになったんですよね」と返した。

 「見えないこと?」

 「はい。クレームをするということはそれだけお客さんは必死なんですよね。中古車といっても、タンザニアでは3000ドル(約33万円)とかします。これって、現地の人からするとものすごい高額なわけですよ」

 タンザニアと日本では、当時の貨幣価値からすると、10倍から20倍くらいの違いがある。つまり、日本での価値からすると、330万円から660万円くらいのイメージだ。

 「僕は、なぜこんな高いものを、タンザニア人はリスクを負って無理して買うんだろう、と不思議に思ったんですよ」

 「ほう。商売に必要だから、とか?」

 「もちろんそういう人もいます。でも、家族のためだったりとか、旅行したいから、とか。それぞれ夢があり、それを実現したいからなんですよね」

 「なるほど。でも、どうやってそれがわかったの?」

 「毎日20人くらい接客してましたので、購入目的はコミュニケーションを取る中で自然とわかります。みなさん、仕事だったり家族のために、あるいは自己実現のために無理して頑張ってるんですよね。クレームを減らすためには、顧客満足を実現しないといけない。そのためには、顧客のニーズをわかることがいかに大切かを学んだんです」

 よどみなく応える柴田は、まさにバリバリのビジネスマンだ。元気だけが取り柄で、どこか頼りなかった学生時代の彼を知っている私からすると、アフリカの厳しいビジネスシーンで活躍し、成長した姿がまぶしく見える。

アフリカ野球の未来を開く第一歩

ITを駆使して中古車販売をアフリカで展開する日系企業のタンザニア支店に勤務していた頃の柴田さん。
 「そうか。大変だったけど、やりがいもあったわけだな。野球どころじゃなかったわけだ」と正直な感想を述べると、柴田は「いや、本当はそうじゃないんですよ」と言う。

 「アフ友のボランティア活動は楽しかったんですけど、限界も感じていたんです。僕らの活動が、本当にアフリカのためになっているのか。ニーズに合っているのか。継続していくのか、と」

 柴田は痛いところを突いてきた。

 アフ友が解散することが決まったのは、実施体制の継続性が保てなくなったことだったが、同じことがアフリカ現地の野球連盟でもいえる。指導者の育成、野球道具の調達、大会の開催、国際大会の参加などの活動には、ヒト、モノ、カネが必要だ。2003年のアフ友設立以来、17年間支援、協力を続けてきた結果、アフリカの野球人口は増え、すそ野が着実に広がってきた。タンザニアでは「規律、尊敬、正義」のスローガンのもと、人材育成のツールとして認知され普及が進んできた。

 しかし、ガーナでもタンザニアでも、自力で資金を集め、国内大会の継続的な開催や国際大会に出場するまでには至っていない。2020年東京オリンピック出場をかけた野球のアフリカ予選決勝ラウンドは、8カ国で行われるはずだったが、大会の開催地である南アフリカ・ヨハネスブルグには、渡航費が集められず、4カ国しか参加できなかった。

 ホスト国を除く3カ国は、ジンバブエ、ブルキナファソ、ウガンダだったが、いずれも日本からの資金支援があって大会出場が実現した。アフリカで野球はいまだ超マイナースポーツであるため、自力では資金も集められず、自立するに至っていないのだ。

 「柴田は2014年にタンザニアから帰国後、しばらくアフ友から距離を置いたのは、野球に関心がなくなったわけではなくて、この活動がこれ以上発展できないと思ったからだったのか」

 「いえ、それもちょっと違います。僕は野球からアフリカに関わるようになり、アフリカが好きになり、今はビジネスでアフリカに関わるのが一番の関心になった、ということです。野球は今でも好きですよ」

 「なるほど。そういうことか。だから今、ここにこうして来ているわけだよな」

 「はい。ですからあの時、7月に友成さんと渋谷で再会して、お話を聴いた時に、これだ!と思ったんですよ」

 南スーダン野球の発展を担うキーパーソンのピーターを連れてタンザニアにきた。そして、いったんアフ友から離れた柴田が、今、再びタンザニアにきている。

 実はこれこそが、アフ友が解散したあと、南スーダンをはじめとしたアフリカ野球との未来を築いてゆく新たな組織の第一歩の活動なのだ。

ライト線から見えるタンザニア甲子園球場の全景。左端に見える緑色の屋根の建物が、タンザニア野球連盟事務所。

企業が継続的に資金を供給するモデルが必要

 それはこの日から遡(さかのぼ)ること5カ月前のこと。私は南スーダンから短期間の休暇一時帰国を取得し、梅雨あけ前の7月のある日、柴田と渋谷駅前のヒカリエ1階にあるカフェで久しぶりに再会した。NPO法人アフリカ野球友の会を解散させる方向で臨時理事会を開催し、議論する直前だった。

 NPO法人を解散するためには、臨時総会を開催し、残余財産の処理などを決議しなければならない。しかし、ただ解散するのではなく、それまでの活動実績とネットワークを土台に、さらにステップアップし、より大きな展望で活動を継続していきたかった。そのために必要なことは「継続性のある実施体制」。これを実現するのに必要なものは、ずばり、カネだ。

 ヒトも大事だが、体制を継続させるためには、アフ友のような、ボランティアの取り組みでは続かない。やはり有給スタッフを専任で配置し、組織と事業を回していかなければならない。土台となるのはやはり資金なのだ。それも、一過性になりがちな寄付金や助成金ではなく、企業が継続的に資金を拠出するビジネスモデルを作ることが必要だ。

 しかし、はたしてアフリカと野球とビジネスの3者が併存共生できるのか?

ビジネスの対象となったアフリカ、出遅れた日本

 この長年の解けない難問に一筋の光が差した。2018年3月、日本の外務省が主導し、第7回アフリカ開発会議(TICAD7)官民円卓会合が開催された。この会議の目的は、日本企業のアフリカ進出に必要な具体的な取り組みについて、官民が連携して議論していく、というものだった。

 アフリカは長い間、援助を受ける対象国が多かったが、21世紀に入り、著しく経済成長を遂げる国が多くなってきた。アフリカは援助の対象ではなく、民間企業の投資対象となる可能性ある大陸として位置付けられるようになったのである。

発展著しいダルエスサラーム。ここ数年でオープンしたビル群。新しい交通機関としてBLTと言われる連結バスが走る。
 この会合は2019年6月に「アフリカビジネス協議会」として、経産省主導で常設の会議体となった。経済産業大臣、外務大臣以下、民間企業80社、22の関係省庁、政府関係機関が参加して行われた。アフリカをビジネスの対象地とするということが、日本の国策となったのである。アフリカと日本の新たな時代が、まさに始まろうとしているのだ。

 しかし、すでにアフリカには欧米、中国、アジアなどから多くの企業が進出している。特に中国の存在感はすごい。膨大な資金力を背景に、援助や投資がアフリカのいたるところで進む。

 今やアフリカ大陸には200万人の中国人が在住していると言われており、かたや1万人といわれる日本人の存在感は、中国の200分の1と言っていい。他にも、インドや中東の資本が多く入りこんでおり、日本から遠く、かつあまり縁のなかったアフリカに、出遅れて進出するのはかなりハードルが高い。すでに出来上がった土俵に新入りが入って何ができるというのか。

スポーツをアフリカ進出のきっかけに

 ここに、長年アフリカで野球を通じた活動を取り組んできた私ならではのひらめきがある。同じ土俵で戦わずに、新しい土俵を作って取り組んではどうか。その新しい土俵とは、スポーツだ。

 2020年は言わずと知れた東京オリンピックがある。日本はオリンピック招致の際の国際公約に「スポーツフォートゥモロー」というプログラムを掲げ、開発途上国100カ国以上、1000万人を対象に、スポーツを通じた国際貢献事業を行うことを約束した。2020年は、世界に日本がスポーツ大国であることをアピールする年になるだろう。

 オリンピックのモメンタムを活用し、企業がスポーツを切り口にアフリカに進出をするきっかけを作る。万人受けするスポーツを企業が支援、協賛することは、スポーツが好きなアフリカでは、どこでも受け入れられやすい。企業の存在をアピールする絶好の機会だ。

 それはタンザニア甲子園大会で実証済みだ。人が多く集まり注目されるスポーツ大会の支援は、企業が実利を得やすい。

「なるほど。それは実にいいアイデアですね。ビジネスモデルとして十分あり得るような気がします」

 柴田はコーヒーカップを持ちながら、私の説明にしきりにうなずいた。渋谷の駅前ビルとはいえ、雨が降っている平日の午前11時過ぎは人混みもなく、カフェの客は我々二人だけだった。

大会を支援してくださる企業は、バナーを球場内に貼りだし、メディアを通じて存在感を示す。

「一緒にやろう。考えてみてくれよ」

 「アフ友を発展的に解散し、新たな形を作っていきたいんだ。一般財団法人にして、企業との連携を深め、野球をはじめとしたスポーツを切り口にアフリカ進出のきっかけにしてもらい、長くお付き合いして行けるような関係を作っていくことを目指そうと思う」

 続いて私は、新団体の概要や、事業の目的、内容、予算案などを記載した事業計画書を見せて一通り説明した。

 「でもな、柴田。継続的な実施体制を構築するのに、大事な要素はヒトとカネだ。一緒に思いを共有できる仲間が必要なんだ。興味あるなら考えないか?」

 「それは嬉しいお申し出ですが、いつ、どんな形で始めるんですか?それこそ初期投資のカネも必要でしょうし」

 「うん、それなんだけど、実はすでにこの構想に共感してくれている人がいるんだよ。立ち上げ資金を支援すると言ってくれている」

 「えっ?そうなんですか!?」

 「アフ友の実績を高く評価してくれている、プロ野球界の要人なんだよ」

 「それは誰なんですか?」

 私の回答を聞いて、しばらくあんぐりと口が開いたままの状態の柴田。事務所も提供してくれるとの申し出もあることを告げると、「もうかなり具体的な話なんですね」とつぶやいた。

 「柴田とは学生時代からかれこれ16年もの付き合いだからね。社会に出て、様々なビジネスの経験を積んできて、能力の高さも十分だ。性格もよく知っているし、何よりも信頼関係がある。そこを一番大事に考えているんだ」

 ふと気づけば12時を過ぎ、店の半分くらいの席が埋まってきていた。にぎやかなはずの店内の雑音が耳に入らず、静寂な空間の中に身を置いているかのようだった。

 次のアポイントがあるので、そろそろ席を立たなければならない。私は、大きく目を見開いたままの柴田に、もう一度言葉をかけた。

 「一緒にやろう。考えてみてくれよ」(続く)

元高校球児の柴田さんは、タンザニアでもたまに野球の指導をしていた。