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現代社会は、強権国家、監視国家をどうコントロールすべきか

ウイルスが我々に問いかけているもの (3)

花田吉隆 元防衛大学校教授

国外からの入国者に新型コロナウイルス検査をするためのブース=2020年3月26日、韓国・仁川空港、東亜日報提供

コロナ危機で国家が主役の座に

 急に国家が主役の座に躍り出てきた。

 これまで国家は無用に市場に介入すべきでなく、むやみに私権を制限すべきでないとされた。それが自由民主主義における国家の在り方だ。特に、日本には過去がある。国家は、一歩下がっているべきだとの考えが強い。欧州でも、フランスが国家の市場介入に比較的積極的であるのに対し、ドイツは、基本的に国家介入に否定的だ。経済は市場の自由に任せ、私権の制限は慎重であるべきだ。

 ところが危機は人の考えを変える。ほんの1カ月前、特措法改正の時、緊急事態宣言は私権の制限を伴うから発出は慎重のうえにも慎重でなければならない、と大方の人が考えた。政府は安易に宣言を出してはならない。実際、総理は、そういう世論の動向を踏まえ、今回、周りがいくら騒いでも、なかなか宣言発出に応じようとしなかった。宣言を決めた時、総理はいみじくも言う。「緊急事態の宣言は慎重でなければならないというのが世論の大勢だったのだが」。世論は180度向きを変えた。

 それほどまでの急激な感染拡大だ。「今日のニューヨークは明日の日本だ」と言われても、誰もピンとこない。日本だけは、と思う。だから、3月20日からの3連休で気が緩んだ。しかし残念ながら事態は真逆に進む。都知事が、政府に緊急事態宣言の発出を求め始めたころ、都民は既に強い危機感を抱き始めていた。「政府は何をしているのか」。ようやく出された緊急事態宣言に対し世論は厳しかった。「遅すぎた」

 非常時にあって、国民は、トップが果敢にリーダーシップをとることを求める。専門家が、接触を8割減にすべしという。ならば、政府はそれを直ちに実行すべきだ。事態は一刻の猶予もない。3日遅れるだけで、カリフォルニアとニューヨークの差が出る。

 あの、政府は私権の制限に慎重のうえにも慎重でなければならない、政府の役割は限定的でなければならない、との考えはいったいどこへ行ったか。人の考えはこうも簡単に変わる。

 それも分からないではない。コロナの勢いはあまりに激烈だ。手遅れになれば大惨事だ。現に、対応に失敗した例が日々テレビに大写しにされる。イタリアやニューヨークの二の舞になるわけにはいかない。

 それにしても、こう簡単に政府の強権発動が受け入れられていく社会の風潮は脅威でもある。ナチスも、ドイツが「分からないではない」状況に置かれた結果、勢力が増大した。ベルサイユ条約のあの過酷な賠償を課されては、国民が、強力なリーダーシップで社会の閉塞を打ち破ってもらいたいと期待するのも「分からないではない」。

 3月末、ハンガリーは首相に、法律を通さず首相命令だけで国民生活を規制できる権限を期限なしに認めた。ヴィクトル・オルバン首相はポピュリストの代表格だ。

 コロナ危機で国家は強大になるだろう。世界中で、今までになく強大な権限を持った国家が出現していく。

世界中で「大きな政府」が主流に

 感染を予防するための規制権限、隔離や休業要請の権限、言うことを聞かないパチンコ店に対する強い規制権限。いや、隔離や休業だけでない。経営困難者に対する緊急融資、生活困窮者への一時金支給からスーパーの入店規制、レジの並び方まで、生活のありとあらゆる面に政府の介入が及んでいく。そのためには財源も必要だ。財政規模が見る間に膨らんでいく。我々は、それをやむを得ないと考える。危機にあっては、国家は強大な権限をふるうべきだ。既に世界の84を超える国で緊急事態が宣言されている。要するに、世界中で「大きな政府」が主流になる。

 危機が起きれば、政府権限は強大になる。歴史はそれを証明する。

 1929年の大恐慌後、米国ではニューディールが主流となった。あの自由主義の国が、政府主導の公共投資を政策の基軸に据える。「大きな政府」の登場だ。

 民主党だけなく共和党までも、国家介入を是とする時代が長く続いていく。世はケインジアンの時代だったのだ。ところが、1970年代の石油ショックを経験し、世界は、かつてないスタグフレーションに見舞われる。政府の公的債務は膨らみ、経済は活気を失っていった。

 1980年代、これではいけないとの考えが生まれる。時代の大きな転換だ。レーガン、サッチャーが主導し、政府の役割が限定されていく。新自由主義が喧伝され、個人の自立、努力がもてはやされた。

 世界をグローバル化の波が襲い、冷戦終結がそれをさらに加速する。やがて、グローバル化は負の側面を持ち、世界は、小さな政府がその是正能力を欠くことを知る。グローバル化の下、勝者と敗者が生まれ、かつてないほどに所得格差が広がった。人々は不満を高め、今のポピュリズムの台頭につながっていく。

 一方、長く主流の座にあった「小さな政府」だが、2008年のリーマンショックがその流れを変える。「大きな政府」の復活だ。リーマンショックという危機の時、国家権限はやはり強化されねばならなかった。各国が一斉に財政支出を増やし、結果、巨大に膨れ上がった財政赤字が、今、各国政府を悩ませる。

「監視国家」に注目、IT活用で感染者追跡

 2020年のコロナ危機は、「大きな政府」の流れを加速していくに違いない。

 2008年の大きな政府は、金融財政に限られていた。今回、「大きな政府」はもっと広範囲に及ぶ。

 特に「監視国家」が注目だ。

 韓国のコロナ対応が注目を集める。4月初め、ソウルの新規感染者がついにゼロになった。一時、韓国の集団感染が世界の耳目を集めた。当時、コロナといえばイタリア、イラン、韓国だった。その韓国がコロナ抑え込みに奏功している。

 そのカギとなったのが、2013年のMERSの教訓だ。苦い経験を踏まえ、対策を練ってきた。それが初動の機敏な対応を可能にした。徹底したPCR検査と軽症者の全国16カ所に及ぶ生活治療センターでの隔離。これで感染が疑われる者をもれなく網にかけ、かつ、病院を重症者専用とすることができた。そしてもう一つ忘れてならないのがIT活用の追跡技術だ。

 スマホにアプリをダウンロードさせ、感染者の足取り追跡を徹底する。濃厚接触者を割り出し、自宅で隔離措置となった者がむやみに出歩かないよう監視する。日本では、濃厚接触者の割り出しは、保健所職員による10時間を超える聞き取り調査だ。その結果、保健所はパンクだ。韓国はそれをIT利用でより完璧に行う。

 どちらが効果的か、説明するまでもない。東南アジアで追随するところが表れ始め、日本も導入を検討中だ。

 IT活用による国民のコントロールは中国が先行する。乞食もスマホで物乞いする国だ。監視を行き渡らせるのに大きな支障はない。顔認証もあっという間に普及した。便利ではある。駅の改札も、自分の顔の事前登録で、パスモやスイカをポケットから出す必要がない。ただ、犯罪を起こしているわけでもないのに、自分の顔写真が当局の手元にある。写真だけでない、銀行口座も履歴も、その日、コンビニで何を買ったかまで、あらゆる情報を国家が握る。

 とんでもない恐怖社会だ。だれもがそう考え、スマホで足取り追跡など、日本では、昨日まで誰も容認しなかった。コロナがそれを一気に変える。効果的に感染者を追求する必要がある、スマホの追跡も「分からないではない」。

 時代の流れは強権国家、監視国家だ。コロナは人の健康や命を奪うだけでない。「社会の呼吸」まで止めてしまう。

 ここは何としても歯止めをかけねばなるまい。ナチス出現の時、ドイツ人も皆そう思った。しかし、いつの間にか歯止めが利かなくなっていく。「明日の日本」が「昨日のドイツ」になるわけにいかない。

 収集されたデータの扱いが重要だ。利用が感染者追跡に厳に限定されなければならない。間違っても他に転用されるようなことがあってはならない。データの管理は厳重に行われなければならず、漏洩や盗用があってはならない。

 今、GAFAに対する規制が議論される。集められた大量のデータは今や第二の石油だ。その扱いは我々の生活を脅かす。通販は便利だが、一度買うと、これはどうか、あれはどうかと、同種商品の広告が毎日パソコンに送られてくる。購買記録が企業に管理され、ネット広告として利用されている。従来の広告は、やみくもに見えない大衆を相手にしていた。今、企業は消費者の選好を知り尽くし、それに見合った商品を勧めてくる。我々のデータは企業の手元にあるのだ。ここはしっかり規制していかなければならない。

非常時に膨れ上がった国家の権限を、平時にいかに縮小するか

 危機が過ぎ去った時、いかに平時に戻るか。これこそが監視国家をコントロールするカギだ。

 危機の時、強権や監視もやむを得まい。公共のため、個人が犠牲にされることもやむを得ない。しかし、危機が過ぎ去れば、また元の自由や基本的人権が尊重される社会に戻らなければならない。それをいかに制度化しておくか。

 非常時の行動を政府は記録にとどめ、危機が過ぎ去った時、それを公開し、後日の検証に付すことにする。場合によっては、平時に戻った時、非常時内閣は総辞職し、改めて総選挙を行わなければならない、とするのも有用かもしれない。

 非常時が平時においてそのまま継続してはならない。強権国家、監視国家は非常時だからこそ許される。非常時に膨れ上がった国家の権限は、平時に戻った時、また縮小されなければならない。