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ポストコロナ危機の政治に向けて(下)

山口二郎 法政大学法学部教授(政治学)

新型コロナウイルス感染症対策本部の会合で発言する安倍晋三首相(右端)=2020年4月22日、首相官邸、岩下毅撮影

ポストコロナ危機の政治に向けて(上)

2 政治システムの構成原理

 次に、政治システムを構成する際の基準となる価値原理について考えてみたい。

① 民主主義

 近代の政治システムの第一の構成原理は民主主義である。民主主義のさしあたりの定義としては、その社会の構成員が自由に参加し、討論によって社会を拘束する規則や資源配分を決定する仕組みということになる。一党独裁の中国がウイルス感染を収束させたように見えるが、感染の全体像を公表していない。どこまで対策が成功したかは、不透明である。世界中で、新型コロナウイルス対策に相対的に成功したドイツ、韓国、台湾には共通点がある。それは、民主化を戦った人物が政治の最高指導者を務めていることである。

 民主主義の第一の利点は、公開性と説明を推進することである。人々が政策課題について考え、発言するためには正確な認識と情報が不可欠であり、民主主義は必然的に公開性と政府による説明を必要とする。それは、不確実性の抑制という効果をもたらす。現状についての正確な認識に基づいて、どのような選択肢を取ればどのような結果がもたらされるかを知ることは、人々の不安を解消し、社会を安定させることにつながる。

 民主主義の第二の利点は、参加したという感覚が自発的遵法をもたらす点である。「良薬は口に苦し」という言葉のとおり、感染拡大に対して社会全体として政策を取る場合、人々にとって負担がかかったり、不自由な思いをしたりするような対策が必要となる。その時、権力者が上から一方的に押し付けた規則であれば、人は反発する場合が多い。自分たちも決定に参加したと思えば、そこで決められたルールを自発的に守ろうとする気持ちになる人も出てくる。巨大な権力といえども、人々の自発的遵法を引き出すことができず、力ずくの支配に対する反発が大きくなって崩壊した例は、かつての東欧の一党独裁体制など、枚挙にいとまない。政策決定の正統性と効果に対する信頼があれば、人々は自発的に政策を実行し、結果として社会を維持するコストは小さくなる。これが民主主義の利点である。

 民主主義の第三の利点は、この仕組みが個人の尊厳と人権の平等な保証を不可欠の前提としており、差別を許さないという点である。病気に感染した人や、他人を感染させるリスクを持つという偏見に曝される医療従事者に対する差別は、残念ながら日本社会、あるいは科学的知識の普及していない途上国に存在する。それは、民主主義の不足の現れである。しかし、ウイルス感染はすべての人にとってのリスクである。感染者を差別して問題を深刻化させれば、それは差別する側への感染のリスクを高める。差別を許さない社会においてこそ人命は守れる。

民主化を戦った指導者がいる国家がコロナ対策に成功

 先に述べたドイツ、韓国、台湾の指導者の例に戻って、議論を捕捉したい。韓国について、文在寅大統領のコロナ危機対策は、2014年のセウォル号事件の教訓を生かしたものだったと徐正敏(明治学院大学教授)は指摘している(論座、2020年4月23日)。権力を私物化し、隠蔽体質を持った前政権の下で起こった海難事故への怒りは、前大統領を退陣に追い込む市民運動の重要な原因の一つであった。この運動の結果生まれた文大統領であるからこそ、公開性、説明を徹底することで国民の理解と協力を得ながら感染拡大対策を推進した。

 ドイツのメルケル首相が3月18日に行った演説も、民主主義という政治の仕組みを守り、これを生かしながら新型コロナウイルスと戦うという理念を明確に表現している。旧東ドイツ出身で抑圧の中で成長した彼女も、民主主義の価値を擁護する強い決意を持っていることが世界に感銘を与えた。このように、民主化を自ら進めた政治家の下で対策が機能していることは偶然ではない。確立された制度の中で選ばれた政治家ではなく、民主主義を求めて戦った人物が指導者となった時、民主主義の特長を実現しようとする強い意志を持つ。そのことによって国家を的確に運営し、国民を統合することができる。

 民主主義を確立された制度ではなく、民主化というダイナミズムとしてとらえることは、国家が先に述べた反知性主義や排外主義の落とし穴にはまらないためにも重要である。世の中に偏見や憎悪という動機で政治に参加する人がいることは否定しようがない。それにしても、そうした無知や感情によって政策をゆがめることを防ぐには、情報の公開を徹底し、従来発言の機会を持てなかった様々な人々に発言の機会を与え、事実と論理に基づく討議を政治の空間で少しでも広げていくことが唯一の解決策となる。

② 公平性と平等性

 次に、社会のありようと人々の意識に関する価値原理について考えてみたい。これは民主主義を成立させる価値と密接に関連するが、社会や経済活動の面でもある種の規範や価値が政治にとって必要となる。

 第一は、最低限の平等である。これまでにも述べたように、不平等、とりわけ経済的な不平等はウイルス感染の温床となる。この点はニューヨークにおける感染爆発の際にしばしば言及された。最近では、社会統制が徹底し、清潔が保持されている優等生だったはずのシンガポールでも明らかになっている。シンガポールの市民には公衆衛生の施策が徹底されているが、マレーシアやインドネシアから来た外国人労働者は埒外に置かれてきた。これらの人々は家政婦、清掃、運転手などの労働をして社会を支えているが、狭い住宅に密集して住んでいる。そこに感染が広がった。それは市民(シンガポール社会の二重構造に注目するなら一級市民と呼ぶべきか)の安全も脅かす。先進国が誇りとする医療や公衆衛生政策は、その社会の隅々にまで及ばなければ、上層の市民の安全も確保されない。その意味で、平等と安全は密接に結びつく。

 第二は、公平、公正である。これは、政治システムによるリスク管理の恩恵がその社会のメンバーに等しく及ぶ一方で、メンバーは政治システムの持続のために責任感を持ち、能力に応じて貢献するというバランスと言い換えてもよい。本人の責任が及ばない理由によって貢献が十分できない人間に恩恵を与えないことは不公平だし、逆に力のあるものが貢献を免れ恩恵だけを得ることも不公平である。

 この意味の公平性の危機は、グローバル資本主義の拡大の中で深刻化してきた。裕福な個人や大企業は、政府に対する忠誠心を捨て、形式的な所属地をタックスヘイブンに移して、租税を免れてきた。富豪の中には巨大な慈善団体を立ち上げ、公共的な事業に貢献する者もいるが、寄付の行き先は当人の裁量で決まる。公共的必要性に応じて財政資金を配分する政治システムから逃避することは、やはり不公平なフリーライドである。

 そのことは、コロナ危機がもたらす経済的打撃への救済策をめぐって、議論の焦点となった。イギリスの航空会社ヴァージンアトランティックの経営者、リチャード・ブランソンは同社の持続のために5億ポンドの支援をイギリス政府に求め、カリブ海に所有する島を担保として差し出すと述べた。彼とその会社はタックスヘイブンを利用して、税金を節約してきたことで有名である。したがって、彼が政府の支援を受ける資格があるのかという反発が出ている。

 グローバル資本主義の中心的な行動原理である利益追求は、社会への帰属を否定し、社会を持続するための費用を分担することを拒絶する。コロナ危機を契機に、グローバル資本主義のそのような自己中心主義を否定し、帰属意識を共有する公平や社会を作らなければならない。

 コロナ危機は、我々が社会的相互依存のネットワークに依拠していることを実感させる効果を持った。医療従事者の奮闘に感謝するのは当然である。さらに、ロックダウンが実施された欧米諸国では、その中で生活に必要な物資を確保し、ライフラインを維持し、清掃などの公共サービスを行う様々な労働者に対する感謝の意識が広がっている。それらの仕事の多くは、過去30年の規制緩和の中で不安定な条件と低賃金で行われるものとなっていた。欧米諸国では移民労働者が担う場合も多い。その点にも反省と転換が必要となる。社会的相互依存のネットワークの中で不可欠な仕事であれば、それ相応の待遇を確保し、働く者の尊厳を守ることが必要となる。具体的に言えば、労働を一般的な商品と同一視し、人間を道具のように使う雇用制度を転換することが急務である。公平な社会を作ることは、社会的相互依存を支える他者に対する敬意を持つことと表裏一体である。敬意の共有は、民主主義の質を高めることにも役立つ。

③ 有能性

 政治システムには、問題解決をする有能性が求められる。この点は、的外れの政策を連発する日本の政府を見て痛感する。的確な政策を立案、実行するためには、専門科学的知見に基づく政策立案が不可欠である。そうした知見を提供する学者、専門家が政治システムに関わり、協力することが必要となる。

 アメリカのように反知性主義的ポピュリズムが跳梁跋扈する社会においては、政治指導者が人々の偏見を恐れず、専門的知見を政策に反映させることが重要となる。

 日本では逆の問題がある。過去の公害、薬害、原子力発電所事故など、科学技術と密接に結びついた政策の失敗例を振り返ると、学者、専門家が必ずしも十分な専門的知見を提供せず、特定の方向に政策を推進したい官僚と協力し、それに理論的根拠を与えるという政治的役割を演じてきた。最近の事例では、「原子力ムラ」という言葉が、そうした学者と官僚や業界団体の結合を表現している。

 学者、専門家と称する人々が、特定の官僚組織や利益団体の利益を増進するような主張を科学的真理の包装紙に包んで国民に押し付けたことを見れば、専門的学問に対する不信が広がるのも当然である。しかし、だからと言って人々が反知性主義に陥れば、政府はさらに無能になる。重要なことは、学問の世界の開放性と自立性を確保することである。本来、学問の世界は多元的である。官僚の政策を正当化してくれる学者だけでなく、批判する学者も対等に議論できる開かれたフォーラムにおいて政策論議を行うことが日本では特に求められる。

 今回のコロナ危機に対して、政府は専門家会議を組織して助言を仰いでいるが、そこで打ち出される政策に対して疑問や批判を投げかける専門家も多い。科学的知見を必要とする政策については必ずセカンドオピニオンを組み込み、広範な議論を通して政策決定を行うことを恒常化すべきである。さらに、専門的な知見を生産する大学という制度についても、その独立性と持続可能性を確保する政策が必要である。

3 議会政治と行政権のバランス

① 無能な集権体制:日本における制度改革の帰結

 最後に、政治システムの制度について再設計のあり方を考えておきたい。今までに述べた政治システムの再構築のためには、行政府、官僚組織、議会、政党など、政治システムの主要な主体のあり方についても、反省と改革が必要である。特に、日本では過去30年間有能で強力な政府を作るための制度改革を行っていたのであり、それが成果を上げていないことについて総括が必要である。

 最初に述べたように、危機に対応した政治体制の変容の中では、行政権の拡大が進んだ。ピエール・ロザンバロンは『良き統治』(みすず書房、2020年)の中で、20世紀における行政権の拡大は、専門科学的な知見を反映した合理的行政(テクノクラシー)と、ヒトラーに代表される例外状況に対応する行政府への授権という2つの方向の誘惑で進められたと述べている。第2次世界大戦後の民主主義体制における福祉国家は、第2次世界大戦の総動員体制の遺産を引き継ぐという面で後者の誘惑と、政府の中で専門的知識・技術を持つ官僚が実質的な政策決定の影響力を持つという点で前者の誘惑が合流して形成された。その中で、議会は行政府が作成し、提出した法案や予算を承認するという形式的な権威付けの機関に弱体化していった。このような変化を、ロザンバロンは「民主主義の大統領制化」と呼んでいる。

 ここでは、行政権の優越が必ずしも有能な政府と結びつかないことを、日本の事例を通して考察したい。日本でも、行政権の優越の傾向は強かった。近代国家を構築して以来、官僚制が近代化、経済発展のための政策を立案、実行してきた。戦後の民主化の中でも、政党政治は利益配分に専念したというイメージがあり、政策の合理性や安定性を確保することについて官僚制に期待する世論が存在した。

 1990年代以降、日本では大規模な政治、行政の制度改革が行われた。従来の官僚制による政策立案においては、各省の組織の縦割り、割拠主義が強く、日本官僚制の特徴である部分的最適化の発想では対処できない政策課題が続出したことを受けて、総覧的な国益を追求する有能で強力な政府を作ることがその目的であった。議会政治においては小選挙区制によって政党特に自民党の集権化が実現した。行政府においては、省庁再編成と内閣の統合の強化によって首相の指導力が強化され、それを支える内閣官房、内閣府という中枢組織が形成された。

 この制度改革は2000年代の小泉政権時代に効果を表し、民営化、規制緩和、社会保障費削減などの政策転換をもたらした。その後、東日本大震災と福島第一原発事故という大危機が勃発したが、当時の民主党政権の党内対立が深刻で、的確な対策を実行することはできなかった。民主党政権の崩壊を受けて、安倍政権が発足し、近代日本最長政権となった。しかし、この長期政権は今回のコロナ危機に対して、的外れの政策を繰り返し、無能をさらけ出している。その理由をリーダーの個人的な資質や能力に求めるのは不十分な議論である。無能な政治家が史上最長政権を築くのは、制度と政党などの政治主体の中に欠点が存在するからである。

 安倍政権が長期化する中で、強化された権力は実体的な問題を解決するためではなく、政権を持続するために使われるようになった。人事に関する権力をフルに使うことによって、政府組織の職員と与党の政治家から絶対的な忠誠を引き出す。解散権を恣意的に行使することによって、あるいは審議における発話を徹底的に無意味化することによって、議会において敵対する野党を無力化する。権力によって政権持続を図るという永久機関化は、国民にも受け入れられている。世論調査で内閣支持率は危機のさなかに下がったとはいえ40%程度を維持している。

 支持の理由の中で最も多いのが、他に適当な人がいないということ、つまり安倍首相が首相の地位にあることが首相を支持する理由となるというトートロジーがこの政権の存立根拠である。権力を持つがゆえにこれからも権力者であるという無限ループの中にいる権力者は、人々に対して問題解決のための政策を説明する論理を持たない。そこから出てくるのは支持率を上げるための断片的な言葉やキャンペーンである。前例のない権力の集中と比類ない無能の組み合わせはこのように説明できる。この現象は、大統領制化というより、専制(autocracy)化と呼ぶべきであろう。

 ここで述べた専制化は日本だけの現象ではない。30年前に民主化を経験した東欧諸国では、専制に陥った例が見られる。また、定評ある民主主義国においても、野党が分裂して無力化する、新聞やテレビという伝統的メディアが経営的に衰弱して自立性や批判性を失う、新しいメディアでポストトゥルースがまき散らされて論理的な討議が不可能になる、裁判所が官僚化してチェック機能を失うなどの条件が重なったところに、権力それ自体を目的とするデマゴーグが現れれば、専制は成立する。

② 政府と議会の新たな協力関係

 専制の危機を防ぐためには、行政府に対抗する議会が行政権優越以前の時代の役割を取り戻すことが必要である。この文章の最後に、危機における議会の役割、議会と行政府の関係について考えてみたい。平時であれば、議会は行政府のトップの使命と、行政府が提出した法案、予算の承認という形式的な役割を演じることで統治はできる。しかし危機において、議会はより積極的な役割を担うべきである。

 パンデミックのような危機においては、政策の専門性と決定・実施の迅速性が要求され、そのことが行政府への権力の集中を正当化する。しかし、日本の事例を見れば、情報の隠蔽や専門家の偏りが懸念されている。国民的な理解の下で有効な政策を実施するためには、議会、特に委員会における審議の実質化と説明機会の確保が必要となる。危機においては、与野党を超えた協力体制の構築を進める誘因は平時よりも強くなる。特にリーダーシップが不安定な場合、与党だけで行政府のリーダーを選ぶのではなく、議会の主要政党が実現すべき政策課題の選定、政策内容の骨格について合意し、政府を運営するというモデルが妥当する局面もある。

 こうした協調統治が総与党体制、さらには翼賛体制に移行しないためには不可欠の条件がある。まず、人々の自由を拘束するような政府の行動はすべて法律の根拠を持たなければならないという原則を守ることが必要である。行政命令で人権を制約する政策が乱発され、服従しない者に罰を科すという事態は、危機においても防がなければならない。そのためには、「政府+与党」対「野党」という対立構図を脱却し、行政府対議会という対立構図の中で行政府の政策を監督しなければならない。法律の審議過程においてこそ、議会は他の機関にない権能を行使する。また、協調システムの構築に当たって、危機状態とは何か、危機脱却とはどのような状態であるかを定義し、協調システムの期限を明記することも必要である。

 こうした協調システムのイメージは、日本の現状を念頭に置いた議論である。しかし、他の国にも当てはまる可能性がある。ドイツでは、キリスト教民主党と社会民主党の大連立政権が存在し、実際には政府と議会の協調システムである。イギリスでジョンソン首相がコロナウイルスに感染した時には、労働党のキア・スターマー党首が建設的な協調を呼びかけた。

問題解決に向け、議会の役割の拡大と政治における言葉の力の回復を

 20世紀の危機は行政府の権力拡大と民主政の大統領制化をもたらした。今回のコロナ危機には20世紀後半以来の様々な政策変化が凝縮されている。この危機は行政府の少数の専門家のアイデアで克服することはできない。政治システムの力量を回復することが問題解決の鍵であり、そのためには議会の役割の拡大と、政治における言葉の力を回復することが不可欠である。危機に対して、与野党を超えて議会の政党、政治家が充実した政策論議の経験を積めば、危機が収束した後の議会政治において、対決と協力のバランスのとれた政党政治が出現することが期待できる。ここはあえて楽観的なシナリオを描きたい。