西浦教授はなぜ、現実の数値とは言えない「8割削減」に固執したのか?
2020年05月08日
後世の歴史家の判断に委ねるため、この事実は記録しておかなければならない。そう私は判断した。
今からほぼ1か月前の4月7日午後6時過ぎ、首相官邸で安倍首相が記者会見に臨んだ。蔓延しつつあるコロナウイルス対策のために緊急事態宣言を発令するためだ。その冒頭、安倍首相はこう発言した。
「最も重要なことは、国民の皆さんの行動を変容させることだ」
「専門家の試算では、私たち全員が努力を重ね、人と人との接触機会を最低7割、極力8割削減することができれば、2週間後には感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせることができる」
「その効果を見極める期間を含め5月6日までの1か月に限定して7割から8割削減を目指し、外出自粛をお願いいたします」
安倍首相の視線は、冒頭発言の3分の1から半分の時間、斜め前のプロンプターに釘付けになっていた。そこにはあらかじめ官僚が書いた発言の作文が表示されており、それを見なければ一貫した発言ができないからだ。
しかし、ここで記録しておかなければならないのはそのことではなく、安倍首相が発言した、人と人との接触機会を「極力8割削減すること」というその「8割」という数字に関わる事実だ。
この記者会見以来、テレビや新聞、ネット上などでは「8割削減」という言葉がひとり闊歩し、緊急事態宣言を解除するにはこの「8割削減」目標を達成しなければならないかのような様相を呈した。
では、この「8割」という数字は一体どこから出てきたものなのだろうか。
記者会見と同じ日、ツイッターの「新型コロナクラスター対策専門家」というアカウントで、厚生労働省クラスター対策班の中心人物、西浦博・北海道大学大学院医学研究院教授が動画解説した。
「今日は、なぜ8割の行動制限が必要と考えているのかをまず説明しましょう」
こう語り始めた西浦教授の後ろにはホワイトボードが立っている。こう書いてある。
Ro=2.5
Rt=(1-p)Ro<1
Roというのは基本再生産数のことで、感染症が流行し始めた当初、ひとりの人間が何人の人間にウイルスを移すかという指標だ。これが2.5というのは、ひとりの人間が2.5人の人間にウイルスを移すことを意味する。
西浦教授は、ここで使っている2.5という数値について、現にドイツで推定されている基本再生産数であることを明らかにしている。
「pという比率の人を行動制限すると、残った(1-p)という人の間だけで2次感染が起こりますから――」(西浦教授)
その(1-p)という人の割合に基本再生産数(Ro)をかければ、Rtで表わされた実効再生産数が出る。そして、この実効再生産数が1を下回っていれば、感染は縮小に向かっていく、というわけだ。
実効再生産数というのは、いろいろな対策を採った後、ひとりの人間が何人の人間にウイルスを移していくか、という指標である。
西浦教授の想定を非常にわかりやすく説明すると次のようになる。
例えば、コロナウイルスに感染しているAというひとりの人間に対して、ウイルス感染防止策として8割の行動制限をすれば、本来会うはずだった8割の人たちにウイルスを移す可能性はゼロになる。これが(1-p)を意味する。そして、この(1-p)に当初からの基本再生産数2・5をかければ、行動制限という対策を採った後の実効再生産数が出る。
これを実際に計算してみると、
(1-0.8)×2.5=0.5
となる。
つまり、西浦教授の計算通りであれば、「8割削減」という行動制限対策を採れば、ひとりの人間がウイルスを移す人間の数は0.5人となり、感染は急速に減っていくというわけだ。
この考え方は本当に正しいのだろうか。
非常に単純なこの考え方の淵源を調べるうちに、私は西浦教授のある論文にたどり着いた。
《感染症流行の予測:感染症数理モデルにおける定量的課題》
2006年1月4日受付、同2月6日改訂とあり、西浦教授と連名で稲葉寿・東大大学院数理科学研究科教授が筆者になっている。
この論文の中で、西浦教授がホワイトボードに掲げた
Rt=(1-p)Ro<1
の計算式に関して、感染症対策としてのpに何を入れるか、具体事例を説明しているところがある。事例として二つ挙がっている。
一つ目は、ワクチン接種率だ。何人の人にワクチンを接種するかという割合とそのワクチンの効果を乗じて免疫獲得者の割合をはじき出す。この計算式から、実効再生産数(Rt)を1以下にすることを前提にして、逆算していけばワクチン接種率の大まかな目標が求められる。
二つ目は、医療用のサージカルマスクの感染予防効果だ。
例えば、基本再生産数2.5の感染症に対して、あるサージカルマスクの感染予防効果が0.8であれば、
(1-0.8)×2.5=0.5
となり、その病院内での流行は終焉を迎える。
しかし、ここで考えなければならないのは、計算式の感染症対策pに何を入れるかということだ。今までの事例から次の三つが考えられる。
① (1-人の接触率)×Ro
② (1-ワクチン接種による免疫獲得率)×Ro
③ (1-サージカルマスクの感染予防効果)×Ro
この三つの計算式を並べてみれば、①におけるpと②、③におけるpの性格の違いに気がつくだろう。
②のワクチン接種による免疫獲得率と、③のサージカルマスクによる感染予防効果の比率は絶対に感染が起こらないことが保証されているが、①の接触率はそういうことが保証されていない。
ツイッター動画の西浦教授は、「pという比率の人を行動制限すると、残った(1-p)という人の間だけで2次感染が起こります」と簡単に言っているが、現実には何の保証もない。
確かに、A→B→C→Dというように均一な形で線形に接触していく社会であればそのようなことが保証されるが、現実は接触機会が複雑に絡み合うネットワーク型社会であり、ワクチンやサージカルマスクのような形の絶対的な保証はない。
このことは、4月5日公開の「佐藤章ノート/『悪いのは「西浦モデル」ではない。何もしてこなかった安倍政権だ』」で紹介した大澤幸生・東大大学院システム創成学科教授の指摘の通りだ。
私は、WHO事務局長の上級顧問、渋谷健司・キングス・カレッジ・ロンドン教授と何度かメール交換し、「西浦モデル」について質問を重ねた。
様々な対策を経た上で変化する実際の実効再生産数の低下が最大目標であり、最重要指標のはずなのに、「接触」という二次的、三次的な数値が最大目標であるかのように喧伝されてしまっている事態が渋谷教授には異様に映るのだろうか。
では、実際の実効再生産数はどのように算出するのだろうか。
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