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「ウイルスがすぐそこにいる」というコロナ時代の新たな日常

花田吉隆 元防衛大学校教授

大型連休が明け、マスク姿で通勤する乗客=2020年5月7日、東京都品川区区、恵原弘太郎撮影

 「昨日の世界」は戻ってこない。我々は、今の「異常」を「常態」(ニューノーマル)として受け入れなければならない。少なくともワクチンが行き渡るまでは。

 5月4日、安倍晋三首相は緊急事態宣言延長の記者会見で、事態は「長期戦」の覚悟が必要で、我々は「コロナの時代の新たな日常」を作り上げなければならない、と述べた。同日、専門家会議は、「新しい生活様式」の具体例を提示した。

始まった「コロナ後」、消えることがない人への「警戒感」

 ワクチンが開発され普及するまで、1、2年が必要とされる(3月21~27日付エコノミスト誌は、専門家の見方として最長2年という)。少なくともここ2、3カ月のことではない。それまでの間、我々はウイルスと共に暮らしていかなければならない。「コロナ前」は過去となり、「コロナ後」が始まった。

 巷では、緊急事態宣言が延長されるか、解除されるかに関心が集まる。しかし、延長、解除は事の本質でない。宣言の有無にかかわりなく、我々が「ウイルスと共に暮らさなければならない」事実に変わりないからだ。解除されたからといって、「コロナ前」に戻るわけではない。

 このことは国民が一番よく知っている。仮に宣言が解除されたとして、気が緩み、街に繰り出す人が一部はいるにせよ、国民の大半は、ウイルスの危険が決して去っていないことを知っている。したがって、政府が何を言おうが、街からマスク着用は消えないし、人と人が間隔を詰めて並ぶこともない。昔のように、人々が我を忘れスポーツ観戦に興じることもなく、レストランに前の客足が戻ることもない。お母さん方が一番知っている。混みあった公園に子供を連れていくわけにはいかない。体操教室や塾通いは考え物だ。

 つまり、我々は「そこにあるウイルス」を意識しないわけにいかない。人と相対するとき、通勤電車に乗るとき、会議に臨むとき、常に「ウイルスが近くにいるかもしれない」と思う。人に対する、ある種の警戒感が消えることがない。

 何ということだろう。ほんの2、3カ月前、こんな社会が来ると誰が予想したか。人の顔から無邪気さが消え、疑いと警戒の色がにじむ。これが感染症蔓延の本当の恐ろしさだ。

 今後、政府による外出や休業制限の強化と緩和が繰り返されていくだろう。緊急事態宣言が仮に5月末に解除されたとしても、ウイルスが勢いを盛り返してくれば、また宣言が出される。そういうことが、ワクチン開発の日まで続く。

海外では規制緩和の動きが急だが…

 ここにきて海外で制限緩和の動きが急だ。ニュージーランドや韓国は、顕著な成果ありとして活動を再開する。感染制圧に依然不安が残るイタリア、スペイン、ドイツ、フランスでも、学校、経済活動を再開するという。

 しかし、5月の5連休に多くの人が万里の長城を訪れると報道された中国では、旅行者数(連休期間中)が対前年比3割、地下鉄利用者数(4月最終週)が北京4割、上海6割でしかなかった。ドイツは、4月16日、実効再生産数が0.7まで減少したことを踏まえ制限を緩めたが、27日にはすぐ1.0まで戻ってしまい、あわてて学校の本格的再開を先送りした。

 制限緩和といってもこれが実態だ。海外が皆、制限緩和に動く中、日本だけが緊急事態宣言延長か、と不満に思う必要はない。海外も日本も事情は似たりよったりだ。「ウイルスは常にそこにいる」のだから。

 では、ワクチンが開発され行き渡った今後1、2年の後、我々は元の生活を取り戻せるのか。我々は「昨日の世界」に戻るのか、それとも新しい「明日の世界」に生きるしかないのか。

 過去、感染症の蔓延は社会を変えてきた。

 ペストは、中世の欧州社会を変えた。封建制が終止符を打ち、教会の権威が失墜、それとともに近代が始まった。天然痘は、新太陸の文明を滅ぼし、代わってスペインが支配権を把握。欧州勢が新大陸から次々と金銀を持ち帰り、それが絶えることない欧州の戦争に使われた。19世紀の欧州で、コレラの蔓延により、人々は上下水道を整備することの必要性を認識したが、これは都市環境を劇的に改善することになる。その結果、それまで農村からの人口流入なしに持続不可能だった都市が自立、やがて都市の農村に対する優位と共に、工業化、都市化が猛烈なスピードで進行していった。

 こういう流れを見れば、今回の新型コロナ蔓延が世界を変えないわけがない。不幸にして、我々は、こういう世界史的変革の時期に遭遇してしまった。「昨日の世界」が戻ってくることはなく、明日からは、今までとは違う別の「新しい世界」で暮らさなければならない。それが「新しい生活様式」「新しい日常」の意味なのだ。

コロナで加速するオンライン化

 「経済」は、オンライン化が猛烈な勢いで進んでいく。デジタル化は既に世界の新たな潮流だったが、その流れがコロナで加速していくだろう。

 大学は既に9割がオンライン授業に変わった。学生と対面することなく、画面を通しての授業だけでちゃんとした教育ができるのか心もとない限りだが、この流れは今後も変わるまい。

 遠隔診療も初診に際し認められ、医者と患者が直接相対することなく治療が始められることになった。離島の無医村にとっては大きな朗報だ。もっとも報道によれば、医師会は、今回の措置はあくまで一時的な緊急避難に過ぎないというが、それで済むかどうか。

 流通は、既に通販が従来様式の流通業を脅かしていたが、今や、客は店に足を運ぼうとせず、変わって、デリバリーが店と客をつなぐ。ウーバーイーツや出前館が大忙しだ。

 客が来ないなら、こちらから品物を「持っていく」というのがキーワードだ。客が観光地にやってこないなら温泉水を客のところまで「持っていこう」との商売が現れた。ローソンは、道の駅に客が来ず野菜が売れ残るので、それではと、野菜を町のローソンまで運び販売する取り組みを始めた。運搬は地元のバス会社を使う。つまり、客が来ないなら品物をローソンの客まで「持っていく」。

 これは案外大きなビジネスチャンスだ。中国でも、戻らぬ客足を前に、レストランでなければ出せない味を客に届ける商売が始まった。いかに企業が頭をひねるか。苦境はチャンスなのだ。実は今、突如として大きなビジネスチャンスが開けたのだ。そう思うしかない。

「オンライン」が「移動」を代替する

 近代は、人の「移動」とともに始まった。馬が鉄道に置き換えられ、更に、車や飛行機が登場する。人の移動範囲が一挙に広がり、生産規模が爆発的に拡大していく。

 その「移動」が断たれた。こんなことは現代史上初めてでないか。現代史が逆回転し始め、人の「生活圏」が一気に縮まる勢いだ。「オンライン」が「移動」を代替する。

 それが何を意味するか。

 少なくとも産業構造は変化する。IT、通販等、オンライン特需の産業が伸びる半面、オンライン化が難しい業種は生き残りをかけた必死の模索しかない。飲食、観光、レジャー、鉄道、航空等、一部産業は果たして業種として成り立つのか。

 経営形態も変わる。今や、「混雑」がタブーだ。今まで、客は集められるだけ集めればよかった。劇場も球場も、遊園地もレストランも、混雑は繁盛の代名詞だった。店を小ぶりにし、客を店の前に並ばせる。これが集客のコツだった。しかし、もうそういうやり方は通らない。

 混雑は忌避され、人と人との距離をあけることが必須だ。スーパーは、廊下を広げる、レジの前を広げる。レストランや喫茶店は客同士の間隔を空ける。店のレイアウトを見直さないと客を呼べない。

 勤務形態も大きく変化する。在宅勤務で働き方改革が一気に進む。生活圏の縮小は、都市の一極集中を和らげ、地方分散を促すことになるかもしれない。人々は、自らの生活拠点の重要性を見直すことになるかもしれない。

 こういう変化は、とりあえずワクチン完成までのこの1、2年だ。しかしその後も、この変化が大きなうねりとなり、そのまま経済を変えていくことが十分考えられる。

「接触しない社会」

 「経済」はまだいい。デジタル化はいずれにせよ進行する運命にあった。

 これに対し「社会」の方が問題だ。社会も大きく変容せざるを得まい。社会は、人と人が接触する中に生まれる。その接触を人が回避しようという。「接触しない社会」が一体どういうものか、ちょっと想像しにくいが、そういう中で、人と人のつながりは果たして保たれていくだろうか。そうでなくとも、現代社会で人のつながりの希薄化が顕著だ。産業化と都市化が進む中、隣人の名すら知らない中に我々は生活している。市町村のコミュニティーは既に実態なく、意識的に市民の参加意識を醸成してやっと共同体としての市町村が存続するありさまだ。オフィスでは、対面する者同士がネットで会話するという。面と向かっているのだから話しかけたらいいではないかと思うが、そうならないのが最近の流行らしい。そういう殺伐とした世の中がさらに殺伐としていくというのか。

 「経済」の在宅勤務は、「やってみればできる、混雑した通勤電車を避け、自宅で仕事するのも悪くない」。通販やオンライン・デリバリーも、慣れればそれなりに便利だ。

 そうであるなら「社会」の方もそうならないか。「人の接触をオンラインだけに限定してみればやってできないことはない、かえって煩わしくなくていい」。オンライン飲み会やオンライン帰省が、結構、社会の主役の座を占めていくようにならないか。

 ある者は言う。「現代人は『選択権つきのソシアル・ディスタンシング』を求める。今までの、べったり付き合いは煩わしい。かといって、まったく接触ないのも寂しい。一番いいのは、会いたいと思ったら会う、嫌になったらスイッチを切る、そういう人間関係だ。今回の接触回避はそれに向けた第一歩として評価できる」なるほど、そうだとすれば、この接触回避は、1、2年で終わらないかもしれない。そのまま社会の変化として続いていくかもしれない。「近しい関係」「膝を交えた関係」がマイナスである社会、専門家会議が言う「レストランでは対面でなく並んで座る、おしゃべりせず料理に集中、路上のすれ違いは距離を保って」が日常とされる社会が主役になる。それにしても、嫌になったら関係断絶とは、いやはやなんとも水臭い。

 現代社会はもともと人のつながりが希薄だった。それが少しレベルアップするだけと思えばいいか。

 それより心配なのは子供への影響だ。子供は同年代と接し、ふれあい、交流してこそ成長する。デジタルに置き換えられるものではない。子供の「接触しない社会」はあり得ない。この1、2年が就職氷河期ならぬ、「子供の氷河期」になる恐れはないか。1、2年の後も、「接触回避」の風潮が子供の世界に残っていくことはないか。