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新型コロナで逝く。岡本行夫氏が夢見たものは……

外交でも趣味でも「夢」を語る快男児。理想から離れゆく現実に何を思ったか

星浩 政治ジャーナリスト

岡本行夫さん=2011年2月16日、東京・虎ノ門

 世界中で猛威を振るう新型コロナウイルスは、日本の論客の命も奪った。

 岡本行夫氏。

 4月下旬に感染し、入院。あっという間に容体が急変したという。74歳だった。

 外務省で対米外交の中枢を担ったが、国際貢献に踏み出せない日本の「限界」を痛感。40代半ばで退官し、在野から発信を続けた。橋本龍太郎政権などで沖縄の米軍基地問題に取り組み、沖縄の人たちから信頼を集めた。

 最近は、トランプ政権のアメリカについて、「私の好きだった古き良きアメリカはどこかへ行ってしまった」と残念そうに語っていた。ダイビング好きで美しい水中写真を多く残した。外交でも趣味でも「夢」を語る快男児だった。

自分の頭で考えることが大事

 岡本氏と初めて会ったのは34年前だった。私は当時、朝日新聞政治部の駆け出し記者。岡本氏は外務省北米局安保課長で、朝日新聞の勉強会に講師として来ていただいた。

 米ソ冷戦の真っただ中で、米国は日本を対ソ連封じ込めの最前線ととらえていた。安保課長といえば、米国の軍事戦略の代弁者だろうと思って聞いていた私に、岡本氏は突然、「あなた自身は日本がどういう形で米国に協力すべきだと思いますか」と聞いてきた。

 「憲法の範囲内で、非軍事の経済協力を」などと型通りの答えをすると、岡本氏は「朝日新聞らしい。私とは意見が違うが、大事なことは一人一人が自分の頭で考えることだ」と話していた。「自分の頭で」という言葉が、今でも記憶に残っている。

湾岸戦争で味わった挫折感

 その後、岡本氏は対米外交の全般を取り仕切る北米一課長に就き、私は外務省担当として取材を続けた。そして、1989年のベルリンの壁崩壊と東西冷戦の終結から湾岸戦争に至る国際社会の激動は、岡本氏の外交官人生も大きく変えることになる。

 90年8月、イラク軍がクウェートに侵攻。米ブッシュ(父)政権は多国籍軍の結成を呼び掛け、91年1月には多国籍軍とイラク軍との湾岸戦争が始まった。イラクはあっという間に敗退。クウェートは解放された。

 この間、日本は米国から目に見える貢献、いわゆる「ショー・ザ・フラッグ(旗を見せろ)」を迫られた。岡本氏は北米一課長として、対米協力の具体策作りに奔走した。当時の海部俊樹政権は、多国籍軍の後方支援のために自衛隊を「平和協力隊」として派遣する国連平和協力法案を作成。だが、国会答弁が混乱し、法案は廃案となった。

 日本は人的貢献を見送り、計130億ドルの資金協力を積み上げた。それでも、湾岸戦争終結後にクウェートが米国の新聞などに出した感謝広告に日本の国名はなかった。これが、その後の日本外交に大きな「トラウマ」となっていく。

 自衛隊の派遣を訴えていた岡本氏も、挫折感を味わう。国連平和協力法案の国会審議のさなかに、こんなエピソードを語っていた。

 「米軍の将校と日本の貢献について話していた時、私は『日本も資金協力をしています。国民一人当たり100ドルも負担している』と話したら、彼はポケットから100ドル札を出して、『君にあげるから、イラク軍と戦ってくれ』と言う。ショックだったよ」

 イラクの侵略に対抗するため、米国は多国籍軍を編成して戦った。いわば「正義の戦争」だ。自由と民主主義という理念を共有する日本はなぜ、多国籍軍を支援できないのか。米国には日本への不信感が募っている――と岡本氏は解説していた。私が「日本は憲法によって海外での武力行使はできない」と言うと、岡本氏は「憲法には、国際社会で名誉ある地位を占めたいと思うとも書いてある」と反論した。

 日本の国際貢献は、PKO(国連平和維持活動)への参加という形で進んでいく。

普天間飛行場の辺野古移設に尽力

 この後、岡本氏は友人とコンサルタント会社を経営、外交とは距離を置いていた。1996年、その岡本氏に声をかけたのが橋本政権の梶山静六・官房長官だった。

沖縄担当の岡本行夫・首相補佐官=1996年11月20日、東京・永田町の総理府
 当時、米軍普天間飛行場の返還が日米間で合意されたが、具体的な段取りは描けていなかった。米国と沖縄の事情に詳しい岡本氏を首相補佐官にして、働いてもらうことになったのだ。
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